人生

やっていきましょう

113日目

価値について考えていた。あらゆるものに価値を見出せない現状と、そのことに囚われてしまっている自分、そして、そうした問題がまるでなかったかのように回り続ける社会。これらの不一致をうまく説明できず、混乱していた。

知人とこの問題について少し話し合った。自分は価値の喪失というものに絶望していたのだが、3人の知人はピンと来ていないようだった。だが真摯に聞いてくれた。本当に感謝している。

3人に共通していたのは、「価値は変動的」「価値観は人それぞれ」であることだった。彼らは価値が相対的であることを認めており、それゆえ自分の信ずる価値の正当性を主張することができていた。彼らは自分が支持する価値観を良いものだと思っていれば、周りがどう思おうと気にしない。自分で自分を認めることができている。

そこで自分はふと気づいた。自分はあらゆるものに価値がないということを問題にしていた。言い換えればそれは、あらゆるものに対して価値を保証するものが究極的には存在しないということに対する恐怖だった。だがこれは価値が絶対的であるという見方だった。いかなる価値をも保証する絶対的な確約を自分は欲していたのだ。

価値を相対的に見るようとすると、自分が消えてしまうような感覚に陥る。自分は自分自身でさえも相対化してしまっている。彼らのような、マクロの領域では自分の価値を相対的に評価し、ミクロの領域では絶対的に評価するという器用さが自分にはない。すべてが絶対か相対かの極端な二元論で語ろうとしてしまう。

そこが問題であるように思われた。自分に今必要なのは、価値を保証するものが究極的には存在せず、価値は常に変動する相対的なものであるということを自覚しつつ、それでも尚、自分の支持する価値観に対しては、あたかもそれが絶対的であるかのように振る舞うことである。

絶対が絶対でないことを知りながら絶対であると積極的に誤解していく、そんな高度なことがどうしたらできるのか分からないが、おそらく鍵となるのは、自分が楽しいと感じることには楽しいと認めることだろう。欲求に素直になり、目の前の世界を肯定する理由を見つけては、そこに喜びを見出しすことではないだろうか。

112日目

自己肯定などというものは側から見れば気味の悪いものでしかない。自分は凄いということを人に自慢しているような、そういう印象を与えてしまう。自分は今、最も基礎的な肯定感の欠落を抱え、どうにかそれを埋め合わせなければ死ぬしかないという状況にあるのだが、そういう事情を知らない人間には、自分も、この記録も、ただのナルシストの驕りとしか映らないだろう。

それはある意味正しい。自分が勉強すること、本を読むこと、将来の展望を語ること、悲劇的な感傷に酔うこと、これらは全て自己満足でしかない。自分が今抱えている問題を、記事にしたり人に話そうとするのは、結局自分のことを他人に分からせようとしているということだ。それはつまり他人に自慢していることに他ならない。自分が自己肯定をすればそれだけ他人に迷惑がかかる。

そのことを強く自覚しつつ、自己肯定感を高めようとすると、自分は気がおかしくなる。

自己肯定とは、究極的には他人を押しのけて自分の要求を突きつけることであり、いくら体裁を整え美辞麗句を並べ立てたところで本質は変わらない。

しかし自分は今まで自分を卑下するよう教育されてきた。自分を持たず規範に忠実な人間であることを求められてきた。だから他人を押しのけ自分を通そうとすると、拒否反応を起こし、自分が気味の悪い生き物に見えてしまう。

自分は自分を肯定しようとすると、自分が気味の悪い生き物であると条件反射的に自分を否定してしまう。自分を肯定しようとすればますます自分を否定してしまう。こういう状況にあり、かえって自己否定すれば肯定感が生まれるという具合なので、自己肯定感を養うのは酷く難しく感じられる。

思うに、自己肯定感を自己否定で塗り替えようとするのは、精神の極限状態に対する適応だったのではないか。だが今はそうではない。少なくとも極限状態ではないし、誰も自分を縛りつける者はいない。

しかし自分は幻影に振り回されている。条件反射を治すことは難しい。すべての価値観を一旦リセットして尚、自分が向かう方向はいつも自己肯定ではなく自己否定だ。どこまで行っても自己否定しかない。

自己肯定が自己否定であり、自己否定が自己肯定であるという倒錯は、呪いのようなものだ。呪いを打ち破り、他人を押しのけ、自己肯定感を勝ち取ることに満足を覚えるようにならないと、決して自分は立ち上がることができないだろう。

多くの人間が自らの加害性に無自覚に生きている。その上で自己肯定感などという謳い文句を平然と公にする。自己肯定感とは自らが偏狭で醜く浅ましい欲望を求めることを肯定することである。自分はそれを理解した上で肯定しようとしている。文句を言う人間には敵意を示し、理解を示す者には歓迎するという、あの原始的なやり方を採用しようとしている。無自覚ならばどれほど良かったか。世界の混迷に目を向けず、一生自分の価値観の中で満足するような人間を見て自分は嫉妬する。

 

 

 

111日目

奇妙な感覚が続いている。自分の心が回復しつつある一方で、あらゆる価値に対する全面的な信頼が欠落した状態にある。失望や怒りといった感情はなく、ただ欠落がある、という状態が続いている。欠落についてはいかなる表現も適切ではないと思う。なにもないとしか言いようがない。

何もない自分と、何かがあると信じて活動している周りとのギャップをうまく説明できない。自分が醒めているのか、あるいは自分だけが狂っているのか。一つ確かなことは、この感覚を他人とは共有できないということだ。言えば相手を不幸にさせてしまうことは容易に想像できる。だからここに書き記す他にない。

自分の知人の多くは、それぞれ信ずべき価値を持っている。何者かになろうと努力している者、日々の暮らしに喜びを見出そうとしている者、趣味を持つ者、繋がりを持つ者、今あるキャリアを積み上げようとする者。そういう人間ばかりなので、自分は異邦の感覚にある。

なぜそれらに価値があると思えるのか、自分には分からない。いや、かつては分かっていたが、今では分からない。すべてが斉しく誰にとっても無意味であるとしか思えない。心からそう思う。だから何かの価値観を積極的に信じている人間は奇妙に見えるし、そうでない自分を騙してどうにか価値を信じようとする人間は、ひどく不自然に見える。

ここにはまったく悪意がない。人を笑い者にしようという意図がない。そのような意図があってバカにするのは、その背後に自分の価値感を持って優越している人間だ。こういうニヒリズムを盾にとった冷笑を以前の自分ならやっていたかもしれない。しかし今はその冷笑をする動機すらない。ただ単に奇妙に見えて、不自然に見えるという事実だけがある。自分はそれを見て、不思議だなあ、変だなあ、と思って首をかしげているだけだ。

かつて色んな人に「あなたはなぜこの価値観を信じているのですか」と問いかけたことがある。ある人は「自分はこういう趣味があって、こういうことに喜びを感じて、人生が明るくなった。だからこうすることにやりがいがある」と教えてくれた。別の人は何かを実現することに憑りつかれていたが「理由は分からない」といっていた。また別の人は「そんなこと考えるだけ無駄」といっていた。そもそも考えたことすらない人もいた。

皆そこまで深刻に考えていない。ほとんどの人間は価値観があることないことにそこまでこだわっていないようだった。こだわらなくとも、自然に湧いてきた興味に対して全面的な信頼をもって取り組んでいる、といった感じだった。ここで彼らと自分とでは前提が異なるらしいということがわかった。

自分は無の上の価値という異常事態に対してひどく混乱し、それがないことには何事も成し得ぬということに戦慄し、どうにか自分が自分であると言える価値観を欲してきた。だが幾多の競争と挫折を経て、それが無し得ぬと悟ると、その反動ですべての価値を放棄し、すべてが無意味であると宣言することで心の動乱状態を収束させた。だが世間では、おそらく平穏な友人たちの間では、無の上の価値に対する闘争という考えすら、必要としなかった。価値は生まれる前からそこにあり、当たり前のようにそこにあるものだから、その価値を疑う必要すらなかった。なんとなく生きていれば価値は我々に微笑みかけてくれるのであり、疑う必要などなかった。価値があると信ずればこそ、価値を追い求め、自分の人生をかけた本気の努力ができただろう。

「なんとなく」ということがどれほど自分にとって渇望すべきものか、今まで知らなかった。「なんとなく」さえあれば、惰性の肯定感さえあれば、自分は無の上の価値を巡る10年の闘争を必要としなかった。「なんとなく」世界が肯定的に見えるのであれば、自分も明日に希望を持って生きられた。しかし、不幸なことに自分はそうすることができなかった。

自分の挫折は自己実現が実らなかったことへの挫折ではない。自己実現という枠組みそれ自体がまったくの無の上の価値観であることを認めながら、それでも敢えて自己実現を果たそうと努力して、しかし自分が究極的にはその虚構に浸れなかったことへの挫折である。自分は自己実現に対する信仰心を完全に欠いたまま、自己実現に対する努力を本気で取り組んでいた。この矛盾は自分を次第に狂気へと陥れ、ついに糸が切れて自分を破壊し尽くしたが、決してこの挫折は解決しないと思っている。なぜなら自分は初めから価値が無の上に立つと理解していたからだ。騙し騙し目を逸らして、どうにか価値を追い求めることに意味があると自分に思い込ませようとしても、意味の無いものは無いとしか言いようがない。なぜならそこには何もないからだ。無いものをあると言うことはできない。

それでもう何もする気になれない。すべてが無意味なことの繰り返しでしかない。そう考える日々だけがある。克服したいと思いつつも、克服に足る価値観を自分は持たない。自分はこのまま虚無に飲まれて生涯を終えるのだろうか

 

 

110日目

今日はしばらくやってこなかった創作活動に触れた。フリーゲームRPGの開発だ。詳細は伏せるが以前自分が投げ出してしまったものだ。何年も前から作っているが、いつもすぐに諦めて放棄してしまった。それで一向に完成しない。

始めた時は壮大な構想を描いていたが、実力が追いつかず、また無計画だったため、まったく完成しなかった。取り組むたびにアイデアが生まれ、その都度シナリオを改善したので、全然先に進まなかった。開発当初は仲間内で評判だったが、まったく完成しないので次第に忘れ去られていった。自分も見るのが嫌になり、開発を放棄した。

開発での最大の難点は、キャラクターのセリフだった。セリフの不自然さが目につくとどうしても直したくなる。どうでもいい場面のひとつのセリフに6時間かけたこともある。かと思えば数日後に全部削除した。今日も以前数時間かけて書いたセリフを半分消した。あまりに冗長すぎたからだ。

こうした失敗を踏まえ、今日開発作業を再開した。軽くやるにあたって次のことを意識した。とにかく無駄を省くことと、完成させることを主眼に置く。無計画なことはやらない。

開発に触れてみて驚いた。以前と比べて自分がテキパキと動けるようになっていた。この数ヶ月、効率的な頭の使い方をしてきたからだろうか、無駄と無駄でないものの区別が明確につけられるようになった。無駄を平然とカットできるようになった。次にやるべきことがコンスタントに分かるようになった。

この調子ならある程度の完成が期待できるだろう。とりあえず1週間は開発に取り組みたい。

 

109日目

今日は図書館に行った。特に目当ての本もなく適当に読んで帰った。前回に続いてニヒリズムの本を少し読んだが、専門的な記述が多くよく分からなかった。

ある程度の前提知識無しに哲学本を読もうとすると、大抵何のことだか分からなくなる。例えば今回読んだ本については、デカルトヘーゲル、カントといった哲学者の思想に加え、現象学、物理学の知識が要求された。今思えばあれは研究参考書だった。無理に読もうとしても何が書かれているか分からないなら、その本は読むべきではない。今はまだ時期尚早だったということだ。

自分の実力に合った本を読むように心がけたい。実力相応、または+αの難易度を狙っていく。読んで到底かないそうにないなら諦める。注視して分かるのであれば頑張ってみたい。

参考書を読むより小説の方が慣れ親しんでいると思い、代わりにサルトルの『嘔吐』を借りた。少し分厚いが1日3時間かければ今日明日には読めると思う。読み終わったら感想でも書こうと思う。

 

108日目

家にいるとどうも正気でいられなくなるので図書館に向かった。見慣れた光景だった。自分はかつてここで2か月間勉強を続けてきた。あっという間の2か月だった。それもあって、今では自室よりも図書館の方が居心地がいい。これも習慣のせいだろうか。

自分が手に取った本は中島義道ニーチェの本で、これが読みやすくあっという間に読み終わってしまった。ニヒリズム、平たく言えば人生は無意味であるという思想を扱っており、今の自分に適したものだと思う。自分は専門家ではないので、所々分からない点(たとえばカントやショーペンハウエルとの比較であったり、キリスト教パウロ主義やプラトニズムに対する否定である等)があったが、部分部分で分かるところを自分なりに取り入れた。今日はその感想というわけではないが、読みながら自分の思ったところを書いていこうと思う。

ニヒリズムに惹かれる人間というのは、大抵挫折を経験していると感じる。人生が順風満帆で遮るものがない人にとっては何の糧にもならない。それどころかつまらない戯言のように映るのではないか。なぜならニヒリズムは価値が無の上に立つという前提に立っているからである。たとえば友人がメジャーリーガーになるという夢を抱いており、甲子園の熾烈な戦いを見事に勝ち抜き、その結果スカウトの目に止まり、まさに今、大リーガーとしてのキャリアを歩み始めようとしているとしたらどうか。彼の肩を叩いて「君の成功には何ら意味がない。人生は無意味である、あらゆる諸価値は幻想である」と説いたとしたらどうか。自分ならまずこいつは何を言っているんだと思うし、何か誤解しているか、ストレスが溜まって八つ当たりをしていると考えてしまう。それでも執拗に無価値であることを迫るなら、名誉を得られなかったことに対する「僻み、嫉妬」だろうなと思う。あまりにしつこければ彼とは絶縁して、新しい仲間たちに慰めてもらうだろう。今日はこんなことがあった。古い友人が自分の成功を僻んで人生の無価値を説いてきた。あまりに腹立たしいので絶縁した。それを受けて同じプロ球団の先輩はこう語る。彼が落ち込むのも無理はない。彼は君の成功を間近で見てきた人間だ。彼は選ばれなかった。だが君は選ばれた。選ばれるということは誰にでもできることじゃない。自分の力ではどうにもならないことがあるからだ。だから天狗になってはいけない。肝に銘じるがいい。君の成功は努力というチップで勝ち取ったギャンブルの賜物だと。こう言われて自分はハッとする。ひょっとしたら自分は友人の立場にいたかもしれないのだ。その日から自分は立ち直った。そして何者にもなれなかった友人を心から憐み、今自分に期待してくれるファンの為に全力で戦うことが正しいことだと認めるようになるだろう。こうして自分は自分の地位を正当化する。その日から自分は本当のメジャーリーガーになった。

こうしたサクセスストーリーにニヒリズムが入る余地があるのか。ニヒリズムはメジャーリーガーとして成功した自分ではなく、価値の虚構性という何ものかに憑りつかれた友人の精神に宿る。健全な人間はニヒリズムの伝道を悪意であると感じる。なぜなら今まさに、自分は諸価値の中で生きているからだ。自分が価値の中で生きているのに、どうしてそれを邪魔するのか。邪魔する人間は総じて悪だ。だからニヒリズムというものは何の救いにもならない。

ところが人生の過程で挫折を経験した人間にとっては真逆である。誰がやれと言った訳でもないのに、ニヒリズムという薄暗い、気休めにもならない程の微弱な光に傷を負った人間たちがたかりはじめる。まるで死にかけた蝿のように。しかしニヒリズムは人々の救いにはならない。それどころか辛辣な現実を突きつける。すべてに価値はない。価値は後付けである。価値があるという人間の錯覚においてのみ価値は宿る。

死にかけた蝿がどういう経緯でその思想に至ったかは分からない。初等教育の過程でいじめられたか、部活や受験といった競争に敗れたか、恋人に裏切られたか、過労で鬱になりそのまま糸が切れてしまったか。それとも不治の病に冒されたか。様々な理由があるだろうが、とにかく今までの価値観が信じられなくなっているような人間、かといって新たな価値観も信じられないという袋小路に追い込まれた人間というのが、最後に駆け込む寺としてこのニヒリズムという思想のもとに集まってくる。

元々ニヒリズムというのはキリスト教的価値観が虚構であるということを主張している。だから本来の意味で言えばキリスト教的価値観に属さない人間にとっては無縁の存在である、ということを本書では書かれていた。確かにその通りだ。しかし自分は経緯や程度の差があれ、今まで自分が抱いてきた価値観に挫折し失望した人間であれば、誰でもそこにニヒリズムを見て良いと思っている。これはやはり広義としてのニヒリズムであるけれども、自分は狭義にこだわる必要はないと感じる。虚構に対する失望という点で自分はニヒリズムを捕えている(もちろん自分が勉強不足でよくわかっていないというのもある)。

ニヒリズムにたかる人間はニヒリズムに救いを見出そうとする。あるいはニヒリズムの克服を求めてニヒリズムに集まってくる。だがそうした宗教にも似た救済への期待は特にニヒリズムの前では完全に否定され続けるだろう。ニヒリズムは克服することができない。まさにこのことを強く意識し続けることを要求する。その上でどうするかを考えるかという思想であり、虚無を完全に否定することはできない。

ニヒリズムには二つのニヒリズムがある。ひとつは消極的ニヒリズムでもうひとつは積極的ニヒリズムだ。消極的ニヒリズムとはあらゆる諸価値が無意味であるという自覚に打ちひしがれ、まさにそのことを強く自覚しなければならず、どうしてもそれは避けられないので、厭世観とともに自分の慰めとなる気晴らしを糧に生きることである。積極的ニヒリズムとはあらゆる諸価値が無意味であるということを自覚し、強く受け入れ、一瞬一瞬を全力で生き、自らが無の上の価値の創造主になることである。

積極的ニヒリズム、または能動的ニヒリズムをわが身に受け入れるということは、尋常の力と覚悟ではできない。それができるのはもはや人間ではなく超人のみであるとニーチェは説いた。本書ではこんな感じで触れられていた。この二つは対立するものではなく、同時に存在しなければならない。徹底的に消極的ニヒリズムに浸って自己を没落させ、あらゆる諸価値を捨て去ってから能動性が沸き起こると。この徹底した消極的ニヒリズムを経なければ能動性は獲得し得ないと。

自分は無の上の能動性を獲得するに至ってはいない。自分は精神的な挫折からあらゆる価値観を喪失し、すべてに意味がないと認識するに至った。しかしそこまでだ。自分はそこから立ち上がることができない。自分が挫折してから鑑賞した映画は50本を超える。プレイしてきたゲームの時間は数百時間を超える。打ちひしがれた無力感は、娯楽という慰めを常に必要とし、にもかかわらずその娯楽は自分の生を肯定することは決してない。自分は1日1日、若さと社会貢献意欲、期待、スキルアップの機会をドブに捨て続け、ひたすら没落し続けている。

 何の偶然かTOEICを勉強した。これは能動的ニヒリズムの賜物だろうか。ある意味そうだし、そうでないともいえる。心のどこかで、自分は失われた価値、勉強すれば報われるという価値観をどうにか復興しようとしていた。そして2か月間、確かに自分は、それが錯覚だとしても、報われるに違いないという価値観にあった。そしてそれは正直に言えばやりがいがあった。長らく忘れていた自己効力感がふと蘇り、死んだ世界が息を吹き返したようだった。

だがそれは無を受け入れて始めたことだろうか。おそらく違うだろう。今までの価値に対する未練から動いてしまったのだと思う。これを能動のニヒリズムと見るのであればそう呼んでいいだろう。だが手放しにそう呼ぶことが自分にはできない。どうも自分はTOEICに諸価値の幻影を見ていたような気がする。高い点数で社会の関心を惹きつけ、労働力のアピールをしたかったのか、あるいはそうなることを期待していたのか。結局のところ自分は無を恐れ、そこにはもはや存在しない失われた価値観に逃げていた。

だがそれも完全にそうだとは言えない。自分は無価値であることを認めた上で、未練を埋めようとしていたのだ。自分は価値の喪失を経験し、以降この先の人生その欠落が埋まることがないことを強く自覚し、しかしそれでも価値を求めて2か月という歳月を勉強に掛けた。無意味を強く自覚しながら、それでもやり遂げた。ならばこれは、たった二ヶ月とはいえ能動的なニヒリズムと捉えても良いのではないか。

呼称に煩わされる必要はない。能動的だろうが消極的だろうがいずれも無意味である。だがともかく、無意味を強く自覚しながら自ら立てた計画を遂行したという歴然とした事実には発展の予兆を感じる。無において行動するとはまさにこういうことか。ならばもう一度、と言いたくなる。

107日目

一日中精神が不安定だった。勉強中今まで抑圧していた負の感情が一気に解放され、自分でコントロールすることができなくなっていた。些細なことに激しい怒りを感じたと思えば、すぐに酷い哀しみに襲われた。その後無気力になり何もすることができなかった。

これがおそらく1週間は続くと予想される。しばらく何もしない。記録だけはどうにか続ける。