人生

やっていきましょう

246日目

先日風呂に入って寝ようとしていたとき、突然精神的な不安に襲われた。その不安は翌日も続き、再び夜になって運動する最中も同様、風呂に入り今に至るまで消えることはなかった。日頃の不安については、ああまたかと思えるくらいは冷静に受け止められるようになったが、その日に限っては抑え込むことができないほど大きな不安だった。

不安というよりは、怒りに近い無念であって、自分が今置かれている状況が、これまでの価値観の文脈に照らし合わせてみれば、まったくの異常なのだという事実の重みに耐えきれなくなった。自分が何をどう弁解しようにも自分は社会的責任を放棄しているのであり、自分を守るために必死に訴える言葉は、義をもって通せるものではない。社会から常に「お前は間違っている。生きる価値がない」と訴えられているような気がする。

自分は何よりもまず自分がいまここに存在することが正しいという安定のもとに立たなければならないが、そうなろうと努力すればするほど、自分が社会に対して裏切っているという現実が明確に立ち現れ、逆に不安定になる。自分はエゴイズムによって自分を回復しなければならないが、そうしようとすればするほど、社会に適応できなくなる不安、罰を受けるという恐怖が鮮明に浮かんでくる。

社会は自分の存在を決して肯定しないが、義務と成果だけは求めてくるというイメージが小さい頃からある。拒めば罰がある。罰によって訓練されることで従順に義務をこなすようになる。自分は自分の人生を一度として生きたという記憶がない。常に外部からの要請に応え、成果を出力する。原動力は外部に対する恐怖。

実際に自分の受けた罰などほとんど無いに等しい。人並のものだったかもしれない。だが自分の中では外部に分かってもらえなかったという経験があまりにも大きすぎる。外部は自分に対して全くの関心がない。むしろ都合の良い人間であるように求める。しかし外部は自分が外部に対して関心を持つことを求める。

自分の中で外部と社会は同義になっている。自分が一人の人間であるように扱ってもらえなかった記憶が、社会に対して抱く無根拠な恐怖の源泉になっている。自分が社会の要望に反して自分を貫ける人間であれば生きやすかった。あるいは自分が社会の要望に心から尊敬の念を抱き、自ら従順である道を選べる人間であればよかった。自分はどちらでもない。自分は自分勝手な人間でありたいと欲していながら、従順でなければならないという規範を克服できない。自分は社会に貢献して自分が正当な存在である自認を得たいと欲しながら、自分の意見や考えにどこまでも率直になりたい、間違っているかもしれないなどと不安に怯えたくないと思っている。

まったく反対方向の願望をそれぞれ抱いて、どちらを選ぶこともできない。どちらを選んでも自分に対する裏切り行為になるのだ。どうしようもなかった。自分は一度それをすべてリセットした。そしてこう考えた。まず自分に率直になり自分がやりたいようにやる。ある程度満たされたら今度はその余剰をもって社会貢献に費やす。こういう段階を踏まえることが理想だ。自分の問題は、自分の感情やモノの見方に率直になることを禁じて、どうにか従順になる道を選んだことだった。それが歪みの原因だった。だからそれを直そうとした。

そういう前提で今まで自分自身を肯定できる自分を作ろうとした。だが完全にはリセットできていなかったようだ。どうにか自分を歪めて社会に適応しようとした、かつての過去のトラウマが突然フラッシュバックする。それで何年も人と話せなかったことも思い出した。すべてなかったことにすることはできない。

自分に今できることは、自分を自分に一致させる努力をすることだけだ。自分のものの見方を信頼することができれば、自分のこころはもう少し安定するだろうと思う。

 

245日目

習慣3日目。朝食を抜いた。それ以外は問題なかった。

2つの課題点について言及する。朝食と運動についてだ。朝食を抜いた日は調子が悪い。今日は1日中イライラしていた。日常生活の些細なことはもちろん、わざわざ過去のことを持ち出して怒りを感じていた。怒りを感じたあとにまもなく虚脱感を覚え、ふとそういえば習慣を実行するのだったと思い立ち、適度に運動した後には怒りのことなどもうすっかり忘れている。

朝食が摂れないのは寝る時間が遅く、起きる時間が遅いからだ。寝起きの悪さは問題ない。だから寝る時間を早める必要がある。

そこで次の問題になる。自分はいつも寝る前に運動している。運動する→ランニングする→風呂に入る→記事を書く→寝る、という流れが1週間前から定着しているからだ。この流れに乗れば絶対に気の迷いで運動や風呂を逃さないという確信がある。だからなおさら手放すには惜しいと感じている。

理想を言えば、朝早く起き、そこで運動とランニングを行い、帰って腹が減った頃に朝食を摂る。場合によっては朝シャワーを浴びてもいい。それで活動時間を日のあるうちに集中させ、夜は運動せず風呂にでも入ってリラックスして寝る。これが一番だ。つまり運動の流れを起きてすぐの時間帯に持っていく。そうすることで脳が活性化し、それを活動に生かせるのではないか。

現時点で自分は寝る前に運動している。運動によって活性化した脳を、風呂でリラックスさせ、そのまま睡眠してしまう。専門的なことは言えないが、おそらくとても無駄なことをしている。

寝る前の運動が睡眠の質に影響するという話をネットでよく目にするが、そうでないという言及もある。睡眠の質については個人的に問題ないと思っている。運動を習慣づける前と後では、後の方がよく眠れたと感じる。だから質に対する懸念はない。

問題は寝る時間帯の話だ。11時30分頃から運動して、ランニングが終わるまでざっと30~40分。そこから風呂に20~30分程度で、だいたい1時間だ。そのあと記事を書くのに30分、場合によっては1.2時間かかるので、寝るのが1時か2時になる。

運動の時間を早めてはどうだろうか。自分の悪い癖として、ギリギリにならなければやらないというものがある。寝るかと思い立ったときはじめて運動の存在を思い出す。それで運動するのが遅くなる。そうではなく、たとえば朝、少なくとも寝る2.3時間ほど前には運動を済ませる必要がある。明日はそれを試してみたい。

 

ところで今日考えたことについても少し触れたい。実は今日、ふと以前やっていた戦略ゲームを起動した。といっても純粋にCPUと戦うわけでなく、史実に沿ったストーリー性のあるキャンペーンで、クリアしていなかった部分があったのでやってみた。

実際、操作面で非効率なやり方が目についた。北方向と東方向から攻められているとき、北ばかりに兵を集中させ、自国の領土ががら空きのところを、東から攻められるということが何度かあった。CPUがあまり賢くなかったので事なきを得たが、やはり資源の配分や計画的な兵力の分散等、自分の実力がまだまだ足らないということに気づかされた。

そんな中で自分がうまくいってるなと感じたのは、物事の切り替えが早くなっているということだ。北側と東側から攻められたといったが、東側から攻められているとき、快進撃の最中にある騎士の軍隊を一旦退かせることができた。兵士についても、ひどく雑であまり的確でない判断だったが、相手の兵士の傾向を掴んで、今作るべき兵士を優先して作ることができた。そのためだったら、うまくいっている作業も一時中断することができた。

流動的な状況に対して、物事の優先順位を変化させる。なかなかできることではない。初めに設定した優先順位をいつまでも保持する方が楽だ。実際自分のやり方はほとんどそういう傾向にある。だがそれでは通用しない状況に直面したとき、一歩退く、戦略を変える、優先事項を再検討するということは有用だ。そうすることで切り抜けられた局面が何度かある。

たとえば自分の失態は騎士を集中的に強化していたことだ。しかし騎士ばかりを作っていたら、騎士に対して有力な兵士、槍兵にあっさりと負けてしまう。だから自分が騎士ばかり作ると、相手は槍兵ばかりを作るようになる。このとき槍に対してアドバンテージがとれるのが弓だ。だから一旦騎士の開発は保留にし、弓兵と矢の強化に専念した。すると槍に対して集中的に資源を投じていた敵国は動きが鈍る。ここで自分は騎士を突入させ、同時に開発を充実させる。

実生活でもそうだろう。何かが通用しないとき、物事に抱いていた固定観念を一旦検討し直し、何が今優先すべきことかを状況に応じて再設定する。口で言うほど自分はうまくできていないが、それができたときに解決の可能性が開けているなと感じる。

今日の問題でいえば、運動の時間をずらしてみるということ。気分屋で注意力散漫な自分が高確率で習慣を成功させる一定の定石を、朝食を摂る時間がないという問題を解決するために、これまでの運動時間を修正すること。そんなことが自分にできるとは思えないが、もしこれが成功すれば、朝食の時間も取れて、運動も問題なくできるかもしれない。とにかく何度失敗してもいいので、この方向にかけてみたい。

244日目

習慣2日目。習慣について考えたところを簡潔にまとめる。

まず体調の変化について。体が軽く感じる。階段を駆け上がったり、走り出すとき、今までは確かな重さを感じていたが、最近では身体が空気のように軽いと感じる。足の筋肉がついたからだろう。体重が減ったのかもしれない。

つぎに腕の筋肉がついていることに気が付いた。1日20*2回、1週間腕立て伏せを繰り返していた。前は自分の枕くらいは柔らかかったが、今では消しゴムほどの堅さだ(大して変わらないのか)。

腹筋についていくつか調べた。やはり腰を痛める要因になりそうだ。腰を痛めない腹筋運動について調べたところ、足上げクランチが有効であるように思われた。いくつか比較してみても、さほど激しい運動ではなく腰を痛めないものなので、これなら持続して行えそうだと思った(腰を鍛える運動についてはまだ保留にする。新しいものをどんどん取り入れると持続しないということを学習したからだ)。

 

つぎに今日思ったことをまとめる。

運動をすることで気分が落ち込むことがない。それどころか挑戦的になり、攻撃的になっている。こういう状態が「当たり前」になればいいものだ。努力が基本、挑戦が基本、常にハングリー精神を抱き続ける。結構なことだ。

だが一方で虚しさを感じる。運動は自分のメンタルの改善と、健康的な思考を維持する目的で始めた。おそらく今運動を止めるとまたその状態に戻ってしまうだろう。だから運動を続けるほかにない。だが運動それ自体が、どうも自分のゴールになってしまっているような気がしてならない。その先の何かを実行するために運動で鍛えているはずなのだが、不毛な運動を続けてそこに満足してしまっている。無目的な運動だ。

どこか食事に近い。食事を摂らなければ人は死ぬ。だから食事を摂らない選択肢など考えられない。だから食事を摂る。だが自分は食事によって本来エネルギーを蓄え、それによって何かを成し遂げるために食事を摂っていたはずだ。だがその成し遂げるための何かが何か分からない。分からないまま食事を摂り続ける。

自分にとって食事も運動も手段でしかない。究極の目的はそこにはない。にもかかわらず自分には持つべきビジョンがない。結果手段だけが残り、それでもいつか目標を見いだせるという期待と、実際には何も見いだせないだろうという諦めを抱えながら、習慣を黙々とこなしている。

食事や運動に満足したくないというのは自分のわがままだろうか。生きるのに精いっぱいな人間は、ありのままの自分を実現する余裕がない。そういう自己の理想を実現するということは、人生に余裕があってはじめてできる。この余裕があってはじめて、自己実現の物語に耽ることができる。あるいは人生に余裕がない人間が、理想という期待によって救われることもある。どこの誰から啓蒙されたか知らないが、理想という吊るされたニンジンが、その人に生きる糧を与える場合もある。

だが自分の中ですべての意味や価値観、語るべき物語はほとんど死んだ。それは明らかだ。価値が死んだからこそ、運動や食事といった手段を前提とした、高次の目的を設定できないでいる。まさしく自分の中の価値が死んだゆえに、それ以上先には進めないでいる。

この世には優れた手段が山ほどあり、それらを運用して何かの目的を達成することができる。ただ、そういう残酷な事実だけがある。そこにはどういう目的を果たすべきかであるとか、どういう自分になりたいかというものがまったく存在しない。

だから自分が今できることといえば、たかだか手段でしかない(と、思いたがっている)運動や食事を疑似的な目的と捉え、自分がそうすることに価値があるのだと積極的に肯定することだけだ。ひどく滑稽で、絶望的な試みだ。不毛でしかない。それでもやらないよりは幾分マシであるように思う。実際に自分は以前より健康になっている。だからどうしたという話だが。

今更運動を捨てる気もない。何もわからなくてもとりあえずは自分に利するであろうことを選択する。選択できる。この1年で学んだことは、まさにそのことだ。答えがでなくてもまずは無難な方向に舵を取る。自分の選択の安定的な基盤を固める。それが自分の今すぐ求めている答えではないかもしれないが、自分はまだ心と体に深い傷を負い、満身創痍であるということを忘れてはならない。自分はまだ小さな目標で満足するくらいが丁度いい。

243日目

再び習慣1日目。今日も問題なく習慣をこなすことができた。昼食に多少不安がある。朝と昼が近く十分だとはいえない。活動時間を午前に振り、その分夜更かしを無くす試みは未だ成功していない。起きる時間が遅ければ遅いほど、寝る時間も遅くなる。

今日は運動に新たなメニューを追加した。腹筋運動10回*2だ。軽い思いつきで特に選んだ理由はない。1つくらい負荷をかけてもいいころだと思っていた。

腹筋運動をしてまず驚いたのは、起き上がる力が思った以上に弱っていたということだ。1秒半くらいかけて起き上がり、同じ調子で戻るということを繰り返していた。さすがに初めての試みで体が慣れていなかったようだ。また無理な腹筋運動をしたことで腰を痛めてしまった。wikipediaにも腰痛を招く可能性が示唆されており、不注意だと思った。腰を痛めない腹筋運動はないか探してみる(そもそも腰を鍛えて克服すればいいのではないかとも思う。ハードな運動でなくても腰を鍛えるトレーニングを持続すれば多少の負荷は耐えられるのではないだろうか。腰のストレッチに関して詳しく調べてみる)。

ところで今日はランニングを2回行った。1度目は昼に、2度目は運動の直後の夜にやった。いつものコースだ。昨日は一昨日の疲れで何もできなかったが、今日は問題なくできた。ランニングをすることにもはや抵抗がない。2度目にすることを面倒だと躊躇いはしたが、できなくはないのでやってもいいかとあっさり実行することができた。

この抵抗の無さが重要だ。現時点で何をなすべきか分かっていて、それが自分の実力によって確実に行うことができる場合、抵抗はほぼ発生しない。ここに動機付けが加われば更に抵抗はなくなる。そのひとつの完成形がランニングだ。すべての物事がこのようになればいいと思う。模範にしたい。

習慣についてはこれくらいでいいだろう。つぎに自分の頭の中を整理する。

何度も言及したことだが、自分に関わる選択の決定権は自分にある。このことを自分は改めて認識している。自分が有利になる選択を自分は選んでも良いし、不利になる選択を拒んでもいい。他人であれ、状況であれ、あるいはモノや価値であれ、いかなるものにも自分が翻弄される必要はない。それらを拒絶することが自分にはできる。

自分で考え行動することを繰り返していくうちに、徐々に自分の意思決定が自分のものになってきている。他人がどう思おうが、まずは自分の意思を優先させるようになっている。自分は自分の判断に従って物事を識別する。それを崩すにはできるだけ合理的な理由がなければならない。

とはいえ現時点では虚勢にすぎない。自分の力量もまだ足りない。不安は当然あるし、不利な要素をうまく払うことができていない。だがそうであっても、自分の意思を守るためにこれからも戦っていく必要がある。そうすることで自分は自分を確立できる。

 

(とはいえ、これらの考えを妄信することはできない。エゴイズムに率直になることで、誰かにその分の負担を強いることになる。その点については十分注意が必要だ。抑圧されすぎたエゴに耐えきれず、今度は反動で攻撃的な人間になることも十分考えられる。かつて一度そのような傾向が露わになったことがある。自分にとっては抑圧が自明の状態であるとしても、それを緩めるときには、抑圧とは理性と本能の緊張状態の上にあるということを十分自覚せよ)

 

 

 

 

242日目

生活習慣を改めて1週間が経った。体調に微妙な変化が生じている。まず落ち込むことが少なくなった。落ち込む要因と出会う頻度は以前と変わらないが、翻弄されることがあまりなくなった。深刻に受け止めるのでなく、軽く受け流したり、避けたりすることができている。翻弄されるだけ無駄と自覚するようになり、別のことに目を向けられている。

健全者の多くが精神の不調に陥らないのはまさにそのためだ。彼らは選択肢を多く持っている。ひとつの不安要素だけでなく、安心できる要素も持っている。選択肢が限られている場合、そこに不安要素があっても報われる何かを期待してある程度我慢しなければならないが、選択肢が複数ある場合にはそこに留まる理由はない。

たとえばゲームでうまくいかずイライラしていても、それしか自分のストレス発散法といえるものがないのなら、しぶしぶ再挑戦する他ないだろう。他に手段は知らないが、そこにベットすることで今までの鬱憤を晴らすことができるかもしれないからだ。逆にひとつのことがうまくいかなくても、ランニングしようだとか、今は創作でもやればいいかと考えられるなら、その問題はあっさり切り捨てられる。

次に明日はどうしようと考えられるようになった。運動する前は今現在のことしか考えられなかったが、運動をしてから先のことを考える余裕ができた(弁解しておくとこれは現実的な視点ではない。自分の自尊感情を高めるために明日は何ができるか、ということである。だから自分に都合の悪い現状については視野にいれていない。むしろ余裕が生まれたことでその現状を見つめなくなっている)。明日自分はどういうことにワクワクできるだろうか、ということを考える。それが何であれ、自分を前進させるものと考えられるようになっている。

それから物事に対して挑戦的になっている。今までは実力や自信もないのに無理して自分を奮い立たせていた。大抵の場合やせ我慢だった。それで失敗したときに大いに傷ついた。だが最近、自分の実力からいってできるかどうか分からない問題に対して、よし、じゃあ今日はやってみようと考えられるようになっている。それが成功しようが失敗しようが、なるほど、じゃあ次はこうしようと思えるようになった。

また総括的だが、物事の決断が早くなった。不安要素に直面したとき、関わるだけ無駄だと分かれば引き下がれるようになった。断っておくがそれはなんでも諦めが早いというわけではない。可能性が見えていて粘るべき部分については大抵粘り続ける(この見極めが以前より容易になっている)。それでも無理だった時には潔く退く。

こうしたら相手がどう思うか、不遜ではないか、もしこの方法でなにかを間違えたらどうしよう、失敗したらどうしよう。こうあれこれ悩むことは無駄だという人がいる。当時の自分はその意味がよく分からなかったが、今なら少しわかる気がする。悩んで何か好転すればいいだろうが、大抵の場合は自分の不安を大きくするだけで終わる。好転したことは一度もない(それでも自分は悩むことを完全には否定しない。悩むことは深い洞察とつながっている。外交的な人間と内向的な人間を比較すればわかる)。

ここから先は悩まないというラインを見極める。自分の場合、ある一定量悩み続けた時から思考のループに陥ることがある。ループに気づいた時点でそれ以上悩むことを止める努力をする。思考のループに陥る頃には、大体自分の中で出せる要素はすべて出している。

たとえば創作がうまくいかないと悩んでいるとき、最初のうちはうまくいかない理由をあれこれ考えられている。だがしばらくしたら、創作がうまくいかないというスタート地点に戻っていて、それはなぜかと考えはじめ、先に挙げた例をまたなぞることになっている(これは瞬間的なループだけでなく、たとえば1日ごとのループである場合もある。かつて自分はそうだった)。なぞる利点は記憶や認識を強化できるくらいだが、不安要素を強化したところで良いことはあまりない。大体出尽くしたと考えたらその材料を使って勝負をするか、材料不足と諦めて退くことにする。

とにかく問題をうまく対処できるようになっている。翻弄される前に選択肢を増やして受け流す。未来志向になり、無駄を省くようになり、挑戦的になっている。どれも運動していた頃に出ていた調子だった。これは良い傾向であるように思う。引き続き朝食・運動・風呂のサイクルを回したい。

 

(一方でこうした傾向に対する嫌悪感というものがある。Twitterなどでよく見かける、ポジティブ思考で暗さをまったく感じさせず、経験は何でも自分の学びと解釈し、不安要素は何でも切り捨て、明るい言葉だけを発散させているような人間の状態である。彼らは自分を騙すのに長けていて、生きることそのものに対する根源的な不安を無かったことにしている。自分は紛れもなく彼らを追随し、彼らのように前進しなければならないと考えているが、決して不安から目を背けない。価値の無謬性を保証するものはなく、確実な答えなど存在しない。不条理は存在する。突然の不運に見舞われることもある。それゆえに不安は確実に存在する。それを忘れてしまっては、自分がかつて誓った生存する覚悟を無下にすることになる)

241日目

今日は外出した。用事で東京に行って皇居周辺を走った。距離は16kmくらいで結構ハードだった。距離というよりは最初の方で飛ばし過ぎて後半に体力が切れた。水分補給を適切に行わなかったので無駄に体力を消耗した。

特筆すべきところはない。ただ走っただけだ。懸念がひとつあるとすれば今日の運動をどうするかということだ。腕立てくらいはできそうだが他のことをやるのはつらい。何かをする体力が残っていない。適当にやれることを済ましてはやく風呂に入って寝ようと思う。

これだけでは記事として物足りないので、自分の考えを少し漏らす。最近創作、とくに小説について気付いたことがある。今までもうっすらと認識をしてはいたが、自分は登場人物を描くということがうまくない。登場人物を描く動機もない。意識的に彼ら固有のキャラクターを設定し、描写したこともない。

自分が今まで何を書いていたかというと、自分の思索を小説という形で表現していた。人間の描写ではなくて、漠然とした世界観の描写していたようだ。ここで自分は登場人物と呼ぶべき存在の不在に気が付く。主要なキャラクターに個性はなく、登場人物はすべて背景となっていて、背景のまま、ただ提示されている。

その小説を見る人は何を思うんだろうということを考える。少年雑誌のように、登場人物に憧れを抱いたり、感情移入するような工夫を自分はしていない。自分の創る登場人物はどれも目的を喪失しているし、何をしたらいいか分かっていないようだ。

とてもつまらない小説だと思う。読者を想定していない。だが想定すればいいのか?自分の描く作品で読者を満足させれば気が済むのか。自分は読者を満足させる言葉やキャラクターを作る動機はない。だが自分のメッセージを訴えかける動機もない(自明性の喪失という実存的危機を他人に訴えて何になる?)。すでに自分からは小説を書くという動機が完全に消えてしまっている。それでしばらく書いていない。

とはいえ、むしろ登場人物の設定を丁寧に仕上げたらどうなるだろうという疑問もある。今まで自分の中で登場人物は不可分の関係、互いが互いに個別の存在として機能していなかった。そのキャラクターが何に最も価値を置き、どういうふるまいをするのか。そこで何と対立し、何に共感するのか。そういう茶番を考えることに面白半分で踏み入れたいという気持ちもある。

かつて一度こうした試みをやったことがあるが「気恥ずかしさ」が勝ってしまい、キャラクターのつくりが控えめだった。そういう恥じらいを今度はあえてぶっ壊してキャラクターを洗練化させるのはどうだろうか。今度暇があったらやってみたい。

 

240日目

習慣5日目。精神の不調に至ることもなく、いつも通りの日課をこなすことができた。こういう日は珍しい。今後の模範にしたい。

今日の運動は負荷をかけすぎた。急いですべてをこなそうとして、まず先に外をランニングしてから、帰ってすぐに筋トレを2周した。気づいたことだが、運動の負荷はランニングよりも筋トレの方が大きいようだ。いつも通り後にランニングをした方が都合が良いだろう。だが今回は先にランニングを行った。休憩を挟まずに腕立て等を繰り返したため、腕に力が入らなくなった。意識が朦朧としたまま風呂につかり、疲れを癒した。気分の不調を挟む隙がない。

ランニングに変化があった。いつもコンビニまで坂を上り川の土手沿いを休まず走るのだが、バテるポイントというのが大体決まっており、そこでいつも息が切れる。だが5日間繰り返していくうちに、無理すれば多少はまだ頑張れるという余裕があることに気づいた。そこで微妙な距離だが無理して頑張るということを繰り返した結果、僅かに息切れを起こすポイントが伸びていることに気づいた。これは進歩だ。

ランニングはリズムでごまかすのが良いということにも気づいた。ただ苦しい、つらいという思いで走るのではなく、タン、タン、タンと何かのリズムや曲にあわせて歩調を整えた方が疲れを感じにくい。遅い曲よりは速い曲がいい。そうすることを意識的に取り入れた。そしたらうまくいった。

ランニングの最中、ふと昔見たアニメのことを思い出した。巨人の星という自分の世代よりひとつふたつ前のアニメだ。このアニメの主題歌が有名だ。「思いこんだら試練の道を行くが男の ど根性」この歌詞だけでもこのアニメの様相が何となく掴める。要は努力至上主義のアニメで親父の星一徹が息子の飛雄馬に対して努力の前には甘さを捨てろということを延々と訴えかける話だ。息子に強制ギプスや千本ノックを繰り返すという、現代では到底考えられないことをやってのける。

もし自分がそのような仕打ちを小さい頃から受けていれば、どこかで心を壊して引きこもっていただろう。だがなぜか、自分はこのアニメを毛嫌いせず全部見ることになった。むしろ自分は、このアニメに励まされていた。当時自分がこのアニメを見ていたのは中学3年のころ、毎日7時頃から淡々とやっていて、ちょうど終わるのが高校受験間際だった。自分は巨人の星を見て受験に対して自分の心を奮い立たせていた(およそ平成的ではない)。

今となって見えてきたことだが、自分が自分の精神を追い込む様子は、一徹が飛雄馬を追い込む様子と似たようなものだった。自分の中の一徹が自分を極限まで追い込もうとし、一方で自分の中の飛雄馬がその絶望的な圧に応えようとしたり、あるいはそうである自分に疑念を抱いていた。だから自分にとって努力至上主義は結構身近な概念になっている(これは本心で望んでいることではない。強迫的な不安からそうせざるを得ない)。

だが自分はそこまで最適な解を導いてきたわけではない。何をどうしたらいいか分からないまま、がむしゃらに突っ走ってきた。頭を使わず、努力で無理を通してきた。中学のブラックな部活も、高校受験も、大学受験も、その先の答えの無い精神の葛藤・不安についても、やはり同じように努力してきた(あまり美化してはいけないので実際のことを言うと、自分はギリギリまで怠けていて、危機感を覚えたら一徹と飛雄馬の関係になるというようなことがよくあった)。

そういう苦労・心労を美化する憧憬として、巨人の星は一役買っている。だから自分がランニングで自分を追い込んでいた時、オープニングで流れる一徹と飛雄馬がランニングする場面を自分に照らし合わせた。誰も肯定してくれない自分のストイックな闘いを、ここだけは分かってくれているという思いにふと駆られる。

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無論これはかつての話だ。今は違う。こうした努力信仰はブラック系の基本理念になりかねないし、現状認識そのものを危うくする。努力という非効率な総当たりで消耗するよりは、効率的な運用によって手軽に問題を解決した方が良い。できるならそうした方が良いに決まっている。ここは頭の使いどころだ。賢く生きた方がいい。

だが自分のアイデンティティを内省すると、スキルを洗練してスマートに生きるというよりは苦渋の忍耐に自分を見出す。どれだけ非効率だろうが自分は頑張ってきたということをどうにか肯定されたい。それゆえに自分は救われるという信仰に漬かりたいという衝動は発作的に現れる(こうした衝動が自分を山や旅に駆り立てたり、現に難しい物事に挑戦する動機の一部になっている)。

事実は明らかにそうではない。自分はがむしゃらな努力では救われない。かつて成功したこともある。だが自分は今がむしゃらな努力の必然として、方向性の欠落ゆえに挫折した。巨人の星に懐古的な愛着を持とうが、それはもはや時代錯誤でしかない。価値の復権など望んでいない。がむしゃらに努力する以上に効率的な方法を取る必要がある。

このことを痛切に感じたのは、自分より優秀な人間が世の中には大勢いるからだ。身近なら例を見る限り、彼らは何も考えずがむしゃらに努力してきたわけではない。方向性を自らの頭で考え、あるいは積極的に外注しながら努力しているのだ。目指すべき目標の最短ルートを手を替え品を替え見つけ出そうとしている。

ところで最近クイズにはまっている。以前どこかで述べた通り、クイズを取り組む姿勢にはいろいろ学ぶことがあった。今日は知人に誘われてクイズ番組を見ることになった。頭脳王という番組だ。そこに出場しているのは東大医学部や京大医学部といった秀才たちで、皆が簡単に解けないような難問に対して彼らは平然と答えていった。

ここでクイズについて考えるつもりはない(正直なところ、自分は部分点を除き2問しか答えられずお手上げだった)。考えたいのはクイズに答える彼らの姿勢だ。彼らの解の導き方について注目していたのだが、思考の無駄がほとんど無いということに気が付いた。知識が最適に関連付けられていて圧縮されていた。

アナウンサーが彼らになぜそうだと思ったのかと問いかけたとき、彼らは迷わず簡潔に根拠を述べる。一見する限り、誰かにこう思われたらどうしようとか、もし自分が間違っていたらどうしよう、大局的に見れば正しくても、部分で致命的な間違いを犯していたらどうしようという不安を感じさせるものはまったくなかった。

そう考えてみると自分の思考は無駄が多すぎる。例えば何か難しい問題が出たときに「うわーっなんだこれ(いつものバラエティ番組で見るやつとは全然ちがうぞ)、こんなのどうやって解けばいいんだろう、あっ、なんか数字や公式が条件として出されたぞ、こんなのわかるわけない」というように自分はまず面食らう(これはリアクション芸人が演じ、テレビ局が想定している一般的な視聴者像だ)。

しかしクイズに出ている人間は面食らわずにすぐに回答を始める。問題で何が求められているかだけを考え、それを解決するためにはどうすればいいかを考えることだけに集中する。これは当然といえば当然だ。面食らう時間が無駄だからだ。それよりも1秒でも多く問題を考えることに時間を使ったほうがいい。

こうした発想はがむしゃらな努力からは生まれない。偶然的に見出だされることもあるだろうが、少なくともその信奉にあっては難しいように思う。がむしゃらな努力は方向性を見失ったエネルギーの放出に近く、目的を達成することには向いていない。また自分は不安や恐怖を感じやすく、そこでもエネルギーが無駄に浪費されている。自分を慰め、納得させ、安心させようとすることに足を取られている。それが無駄だ。目的と手段をはっきりさせ、そのことだけに注力したほうがいい。

自分の不安の原因はだいたいわかっている。不安の大半は他者からの視線、自分の間違いに対する恐怖、不適格な偏見や無理解に対する恐れで占められている。真に問題解決を第一優先事項にするのであれば、これらの不安は遮断する必要がある。だがそれがなかなか難しい。生まれ持ったものなのか、環境によってそう歪められたものであるのかは知らないが、自分の心は容易に変えられない。だがこれらは部分的には修正できる。

がむしゃらな努力の励まし以上に、今は方向性のブレない合理的なプロセスに励まされる。アイデンティティとして自覚するのはがむしゃらな努力だ。だが自分はそれで一度死んでいる。今は生まれ変わったような気持ちで、考えながら努力する術を学ぼうとしている。一に自信、二に方法だ。そういうわけで知的に試行錯誤する人間を広く参考にしている。

 だが今日はふと、自分がかつて思い描いていた、努力は必ず報われるという「世界公正仮説」に対する素朴な信頼を思い出していた。それゆえ努力を妄信し、しかし方向性が見当たらず、それでもどうにかしようとしてがむしゃらに頑張っていたことを思い出した。明らかに自分はそこから生まれ出たけれども、今はもはやそうなれないということに気づいた。今日はそのことを記録に残したかった。