人生

やっていきましょう

666日目

自分はいつも何かにつけて自分が間違っていると思いがちだ。自分の考えには何か欠点があり、そこを突かれれば自分の正当性はたちまち消失するような誤りが、自分の中に無数に存在すると思っている。そのような誤りを自分が抱えているということは見方によっては好機であり、そのまま試行錯誤の材料にすることができると考えることもできるはずだが、自分はそれが自分への心無い人格否定の材料にされることをただ恐れている。

自分の人間不信や社会不安、自己否定の根源はここにある。とにかく他者全般に対する第一印象が、自分という存在を否定するために存在しているという思い込みで固められており、なかなか信頼関係を築くことができない。合理的に考えることで、今ではほとんどこの思い込みを排除できているが、何かにつけて猜疑心は湧き起こってくる。

この問題を突き詰めて考えていけばこういうことになる。自分と他者の利害が衝突した際、他者は自らの利益を得るためにこちらに闘争を仕掛けるが、自分はその闘争に怯み、対立を回避しようとして自分に不利な条件を飲み続ける。そのような敗北経験が積み重なり、また無意識のうちに闘争による敗北ではなく不利な条件での和平の成功を確実なものにしようとして、自分は対立を察知したら反射的に相手の都合を察知し対立を収束させる癖がついてしまっている。その行為を正当づけるものは、相手の力量が未知数であり、自分はその状況下で勝った試しがない、なので逃げる、というものである。したがって他者は常に未知数で強大であり、自分はいつまでも敗北の運命にあるということになる。

言うまでもないが、自分がいつも間違っていると思うことは、常に他人の考えが正しいと思っていることの裏返しでもある。他者という強大な恐怖に屈するあまり、自分の中の意見を捻じ曲げ、他者様がすべて正しいということにしているのだ。

これがまったく愚かなことだということは一目で分かるだろう。どうして自分を悉く否定するほど、他者がそれほど信頼するに値するというのだろう。他者は他者の都合を自分に投げかけているだけであり、必ずしもそれが自分を従わせるほどの意義があるとは限らない。

自分は何か他者について歪んだ妄想を抱いている。他者は自分が思っているほどに自分のことをわかってくれるわけでもなければ、自分を攻撃しようとしているわけでもない。そうした人間は少なからずいるかもしれないが、全体的にみればそこまで極端ではない者が大半ではないのか。

他者の中には自分よりも賢い人間もいるが、愚かな人間もいる。善意を持つ者もいれば悪意を持つ者もいる。他者同士にも利害が発生する。すべてが信頼できるか、まったくそうではない場合というものはほとんどない。それがあるというのは、自分の人生経験の少なさ、対人経験の無さがそう思わせているだけだ。

自分が間違っているという思い込みを修正するには次のように考える必要がある。まず第一に、対立は常に回避すべきものではないということだ。自分の中に明確な根拠があり、かつ自分が要求すべきと判断した場合には、恐れず対立の渦中へ進んでいくべきだ。すべての対立がリスキーなものであるということはなく、ある程度の痛手で済むような場合もある。そのときには進んで挑戦したほうがいい。

このとき自分は何らかの失敗をするだろうが、その失敗を記憶することが重要だ。自分がどういう意図を持って要求を行い、何を実践したことによって相手からネガティブな反応を受けたのか。それを頭の中に刻み込む必要がある。その失敗は積み上がり、自分は常に間違いうるという信念を強化するかもしれないが、これは何かをする前に感じていた漠然とした無力感とは異なったものになる。それは「かもしれない」という可能性の話ではなく、失敗という材料を根拠にした具体的な評価となっている。そうなってからは、自分がその材料をもとに修正作業を行っていけば良いのであり、また自分が常に間違いうるということはまず無くなっていくのではないか。

第二に、他者に期待しすぎないことである。自分は自らの判断の自信の無さから、他人の意見を参考にしたがり、いつしかそれらの後押しがなければ何も言えないようになってしまっているが、他人は所詮他人であり常に自分の都合を考えてくれているわけではない。

自分の精神がかなり弱っていた頃は、他者の都合を第一に考えて行動することで、その見返りとして自分の都合も同程度配慮してくれることを期待していたが、ほとんどの他者はその期待に応える働きをしてくれなかった。当時の自分は他者を心底憎ましく思っていたが、今ではそう思わない。むしろこの、勝手に過剰な期待を持ち勝手に失望する自分の方が、対人関係においては問題であるのだ。

他人は万能ではなく、他人は他人の都合でものを見て考える。相手を助けることにも限界がある。それが基本である。そして自分もまた同じ条件下にある。人によってはある程度の歩み寄りは可能だろうが、はじめからそれを期待してはならない。まず自分が他者の影響からある程度独立し、自分ひとりで判断を下せる状態にまで成長する必要がある。その上で他者と関わり、無理が生じない程度に互いが独立し距離を持つことが望ましい。自分が常に間違っているというのは、他者が強大であり常に回避し屈服するしかないと考える自分の妄想である。他者はそれほど強くもなく、自分と同じくらい簡単に間違いうる。その中で他者あるいは自分がどれだけ確かな判断を下すことができるか、という話である。

第三に間違いを恐れないということだ。以前も述べたが、間違いは人格否定の材料ではなく失敗という事実でしかない。そこに自らの人格否定という解釈を加えているのは自分である。そしてその自らの人格否定という解釈は、特定の他者が自分に投げかける(であろう)感情をそのままなぞり、そのまま受け止めているにすぎない。

自分は失敗を恐れるべきではない。少なくとも技術的な問題や制限によってではなく、自らの人格否定の材料となり得ることを理由に失敗を恐れるべきではない。解釈と事実は分けて考えることができる。事実は失敗によって生じた現状と結果であり変えられないが、解釈は自分に利するように操作することができる。人格否定もひとつの解釈だ。茶番じみているが自分の成長材料とすることもまた解釈である。あるいはまったく存在を無視するという解釈の放棄も可能だ。いずれにせよそれを反射的に不利な方面に解釈しなければならないということはない。そのようにしていることが自分の判断の自信を失わせ、常に間違っていると思い込ませているならば、ただちに修正される必要がある。

 

665日目

数ヶ月前から精神不安に陥ることがほとんど無くなった。自分の感情が乱されるのは、ある具体的な問題の解決が困難である場合など、焦点が明確で全体を把握しやすいものである。そうした見える問題についてはブログに投げ、どうすればいいかを考える。次の方針を定めてからまた問題と向き合う。

こうしたことを繰り返しているうちに、自分には対処できず全体を把握できない不明瞭な問題、例えば自分のトラウマや対人不安、アイデンティティの問題、実存的危機、虚無感などに煩わされることが減った。意識してそうしているというよりは、本当にどうでもよくなってきている。数年前に始めた「価値や解釈ではなく問題の機能や仕組みを意識する」という認識の転回が、ここに来て自分の内面に安定を生み出しつつあるということだろうか。

逆説的かもしれないが、このような問題の構造を把握する訓練を自分に課したことにより、かえって自分が多くの価値や解釈を受け入れられるようになっている。

おそらく自分に欠落していたのは問題を正しく正確に把握する能力であり、そこが不安定であるがゆえに解釈に親しむという余裕が失われ、渇望し依存するか、さもなくば全てを否定するかという極端な二元論を取らざるを得なかったのだろう。奇妙なことだが、自分の生活が、自分の認識がとりあえず安定していれば、解釈や価値といったものが究極的に無意味だという確信に至ったところでだからどうしたと思うことができる。なぜならその時の自分は、ある価値や解釈から必ずしも束縛的な影響は受けておらず、安定を獲得し維持できる仕組みによって、それらの諸価値から独立して安定しているからである。

これまでの自分は、自分の解釈や価値というものが重大な生命線であり、それが失われると死ぬ以外にないとさえ思っていた。しかし自分の生命活動は、自分の価値観とまったく不可分なものではなく幾分独立していたものだった。人は安定という基盤さえあれば、価値や解釈に翻弄されず(あるいは持たず)に生きることができる。これは本当に無意味に聞こえるかもしれないが、自分の価値、自分の信念、自分の存在理由を持たなければならないという強迫から距離を取ることができるという点である程度自分の助けになる。

だが注意しなければならないのは、その価値や解釈に影響され(あるいはされずに)、自分が選択したこと、しなかったことが自分の人生、及び周囲の人間に与える影響というものは確実に存在するということだ。自分の内面的な苦しみを緩和するために臭いものに蓋をしたところで、臭いものは依然としてそこに残っているのである。事実を見るとはこういうことである。考えるのも苦しいことだが、自分が対人不安を抱き対人関係を積極的に築こうとしないのは、それが自分の社交性を強化しなければならない理由には必ずしもならないが、対人不安による社交回避と機会の損失によって今後の人生に何かしらの(おそらく自分を不利にする)影響を与えることになるだろう。

自分の今ある理想は、こうした視点を持ちながら、そのまま萎縮するのではなく、自分の意志と決断によって自分の人生を切り開くことである。無数の可能性に対して呆然とするのではなく、何かしらの方針を持って行動することを考える必要がある。そのとき自分の標となるいくつかのものの助けを借りても良いだろう。価値や解釈とはそのように利用できるということを忘れてはならない。

 

664日目

TF2をTitan fall 2と呼ぶ人間を悉く嫌悪し、元はTeam Fortress2であると頑なに言い張っていた自分が、今ではその後身のApex Legendsに心血を注ぎ膨大な時間を費やしているのだから不思議なものである。それどころか自分は今まで続けていたTeam fortress 2をもうプレーする気にはなれず、当初の状態から完全に立場が逆転したといえる。

TF2を当分プレーする気になれない理由は、ボイスチャット機能が使えなくなったことが大きい。ゲーム内ではz,x,c,そしてeキーを押すことで特定の多様なボイスチャットを入力することができるようになっていた。しかしbotハッカーチーターの問題を懸念した運営側が、F2P(無課金ユーザー)のボイスチャット機能を全面的に禁止してしまった。それで今ではゲーム内で課金をした人間だけがボイスチャット機能を使えるという状態になっている。

この措置のお蔭でゲームプレイの楽しみが減っただけでなく、ゲームの進行に必要な実践的かつ戦略的なボイスチャット(たとえばeキーでメディックに助けを求める、味方に扮したスパイが近くにいることを指示する等)もまた完全に使えなくなり、ゲームプレイそのものが障害の多いものになってしまった。

この問題は多くの掲示板で示されている通り、TF2のプレミアムアカウントになることで解決できる。ゲーム内で課金(確か5$以上)をしてアイテムを購入することでそのユーザーはF2Pでなくなり、晴れてボイスチャットを使えるようになるということである。しかし自分はそこまでしてTF2をやるつもりがない。自分がこのゲームをプレーしていたのは無料であったからこそである。それで自分はしばらくTF2から離れていた。

自分の記憶が確かであれば、この問題を数か月前にどこかで取り上げた記憶がある。あの頃からしばらく経っており、もうそろそろ改善されているだろうと思って今日立ち上げたが、問題は一向に変わっていなかった。戦場にボイスチャットがほとんど流れないまま、ただ爆撃の音だけが鳴って互いにキルを取り合っているだけだった。それで興ざめした。これだけならわざわざTF2をやる理由がないと思った。それで今はエモートホイールの充実しているAPEXの方に意識が傾いている。

チートやハッカー対策であるというのは分かるが、こうした制限が長く続いていると自分のようにTF2から離れるユーザーが後を絶たなくなり、結果的にプレー人口が激減するのではないか。そうなる前に運営には何かしらの対策を打ってほしいと個人的には思っている。この問題が解決されれば自分は再びTF2に戻るだろう。

663日目

今日NHK高校講座をテレビで見て、それがすべてネット上のNHKアーカイブスで無料で見ることができるということを初めて知った(現在テレビで放映しているのは去年の再放送ということらしい)。元々関心のあった世界史を見て楽しんでいたが他にも高校で受講しなかった科目もあり、今まで疎遠だった分野を知る良い機会になると思った。

www.nhk.or.jp

高校過程を学ぶのは今更かもしれないが、暗記のためではなく視野と関心を増やすためということを考えれば、今の自分には必要なものかもしれないと考えた。それに高校修了程度の知識理解度しか持たないと度々自虐している自分には、丁度いいレベルであるように思う。

今日自分は改めて歴史に関心があるのだということを実感した。文学部を出たときには人文学の実用性の無さに葛藤し、ついにはそれらが無意味でしかないと悟ってしまったが、そうした実用性という観点からでしか物を見られない自分を相対化するように、歴史は自分の興味を駆り立てる。

何が面白いのかと言えば、人が様々な思惑の元に何かを行動することで後世の関係勢力に思わぬ変化が生じるということだ。これは政治や軍事に限らず、むしろそれらを越境して文化や科学にまで変化をもたらすこともある。

例えば第一回目の世界史講座では近代サッカーが南米に強く根付いている理由を掘り下げていたが、そこには世界に市場を持ちたいイギリスの思惑と、西欧支配から独立しようとしたラテンアメリカ諸国の変動があり、それらが合致したことで結果的にイギリスの南米への文化流入を促すことになった。

文化流入という観点でインドとの比較も行っていたが、なぜインドではサッカーよりもクリケットが流行ってしまったのかという疑問にも答えていた。国民性ということもあるだろうが、むしろイギリスの文化的影響の与え方に違いがあるということに着目している。

ラテンアメリカ諸国には市場開拓という目的で参入しているため、(おそらく商人が文化の伝え手となり)道具を必要とするスポーツよりも道具をあまり必要としないサッカーの方が浸透した。一方インドはイギリスの直接的な植民地であるため、イギリスのスポーツ用具を持ち込んだ官僚や富裕層が文化の伝え手となり、そのまま道具を必要とするクリケットやホッケーが根付いていったとされる。

もし南米諸国をイギリスが植民地とし、インドを早いうちから独立国家として承認していたら、それらのスポーツ文化はまた違ったものになっていたかもしれない。そう考えると今ある文化はあり得たかもしれない未来のひとつであるということが実感できる。

もちろんそのような雑な空想だけでは歴史は語れない(実際に何が起きたか、それらがなぜ起きたかを確かな根拠を持って語る必要がある)が、自分はむしろ、こうした歴史の不安定な偶然的要素に強い関心を覚える。何かが狂っていれば生まれなかったであろう歴史の出来事が、同じように考えられた無数の可能性の中から、実際に起きたひとつの希少で平凡な事実としてその都度選択されていくことで、歴史というものが積み上げられていく。その感覚に自分は歴史の危うさというものを感じ、スリルがあって面白いと思う。

ところで自分は高校で世界史しか学んでおらず日本史についてほとんど何も知らない。中学の頃に一通り学習したが、ほとんど何も覚えていない。最近まではそれでもよかったが、近頃は大河ドラマにも興味が向いてきて(それが大胆な解釈である要素も多分に含まれているとはいえ)実際の歴史を知らなければ半分も楽しめないということに気づき始めた。

そこで今度は日本史についてNHKアーカイブスを使って学んでみようと思った。受験のような暗記の必要がまったくないので気軽に見ることができる。

 

 

 

662日目

ポジション取りを優先するあまり極力戦闘を避けてしまっていた。急いで優位な場所を取ろうとして、敵に遭遇したら真っ先に避難した。その結果RPは減り続けている。

ずっと前に0キルで潜り続けるよりもキルを稼いだ方がRPは溜まっていくという話をした。自分はそのことをすっかり忘れていた。積極的にキルを稼がなければRPは貯まるわけがない。

RPをこれ以上減らすまいと思えば思うほど戦いが怖くなり、逃げることを第一優先にしてしまう。こう考えている間は勝ち目がない。明らかに不利でない場合は、できるだけ戦いに向かって勝つことを意識したい。特に自分が先導しているときは避難ルートを確保できたら戦いに行くことを選択できるようにしたい。

事前に回避して良いのは今避難すれば次の優位ポジションが確保できると確信できる場合、もしくは一度戦闘を行って不利になるか停滞状態に入り、できるだけリスクを冒さず避難することができる場合だ。何もせずただ逃げ出そうとするのは間違っている。

661日目

万全の知識とその関係が自分の元に提示されていない以上、あるいはそれに類するものが何者かの努力によって整理され確立されていながらその存在が自分にとって自明でない以上、自分の知識や判断の及ぶ範囲というのは極めて限られたものになるということは避けられないだろう。

極めて平凡に聞こえるかもしれないが、自分は常に途上にあり永遠に何かを間違い得る存在である。これは恐るべきことではないのか。地球上に何十億という人間が暮らしていながら、自分を含めその多くが何かの理想的でない行動を引き起こしており、何かに適わない結果を生み出し続けている。自分がうっかり何かをしてしまったら、それが何かの間違いを引き起こすことは容易に想像できる。そのため自分は、自分という人間が何も信頼に置けないのだという結論を早々に下しがちになる。そして何かを行動する機会を失い続ける。自分の無力感の源泉はここにある。

だが事実は、自分という人間の失敗が及ぼす影響などたかが知れている。正しく言えば、自分のあらゆる行動のすべてがただちに物事に深刻な影響を与えているわけではない。明らかに致命的でないものを除き、失敗は自他の努力によって事前に回避されるか処理され得る。失敗への恐怖がそのことを覆い隠し、本来の無機質な現実を歪曲し、自分の無力感を絶対のものにしているにすぎない。

この種の誤解は自分は全てを知り得るか、まったくの無知であるという極端な二元論に由来し、その中間にある様々なグラデーション、あるいはその両極が更に細分化されうる可能性についてほとんど無視していることから生まれている。中庸という言葉を安易な折衷の方便として用いることと同様、問題をどこまでも細部まで切り分けて整理する忍耐と知力を持たないために、情報量が少なく簡単に全体を覆うことのできる認知的負荷のない世界観を好んで使うということが自ら生来の、本能に近い怠惰として現れてくる。

この万能か無能かという二元論から脱し、自分が可能であると評価できる領域をどの程度、どの範囲まで、どれほど再現性があり、どれほど信頼できるかを強化・拡大し、保持できるかという問題に向き合うことが重要になる。極端な評価というものは、極端な結論となり、以後の修正や調整、確認を行う動機を失わせる。なぜなら絶対的なものはそのまま不変であるからだ。

たとえば自分が極度の自己不信に陥っているのは、自分を負の方向に絶対的な存在であると固く信じているからだ。自分は無能だということはある程度事実に近いことだとしても、それらを過度に誇張して捉えているために、自分の中で不変の真理として君臨し続ける。

誰かがそれを変えてくれるということは可能性としては起こり得る。だが自分のこれまでの人生の中で、自分の無力感を変えてくれた人物など現れた試しがなかった。結局は自分が変わろうとしなければ相変わらず状況は変わらないままである。

この変化を、勇気や自信という思いに求めるのではなく、できれば冷静な判断の組み合わせによって対処できるようにしたい。自分が行き詰まっている時は、このことを何度も思い出していく。

660日目

ランクマッチで死ぬ最大の原因を特定した。それは仲間の動きに完全に流されて、安全地帯の確保とリングの予測、及び戦闘時の前進撤退の判断が即座にできていないということだった。

ソロでカジュアルに潜る時のように、毎試合自分が全て判断し仲間を先導し、不利な試合は極力避け、真っ先にリング内の優位な位置取りを抑えることを意識してからほぼ大敗することが無くなり何度も優勝した。その結果1日でプラチナⅢに戻ることができた(すぐにまたⅣに落ちたが)。

いくつか補足をすると、もし自分と同じように考えるプレイヤーがいたらとりあえずは従うが、判断を全く依存することはしない。先導の判断が遅れていると感じたらすぐに提案を行い、以後は味方に先導を戻すか自分が先導する。また不利な状況で戦闘がはじまったら即座に撤退の判断を行い、漁夫の利狙いが来る前に遮蔽物に隠れながら逃げ道を確保する。

また自分の判断に従わず戦い続けていた場合、明らかに不利な場合はピンだけ置いて自分だけ撤退し、味方がついてきたら後方からカバーするがそうでなければ見捨てる。不利でない場合は味方を確実にフォローできる場所で安全に戦うが、戦闘が膠着していると感じたら漁夫の利狙いを警戒してピンを置いて逃げ道を確保しに行く。その場合たとえ不利でなかったとしてもすぐに部隊を撃退できない状況にあったら撤退する。

この判断のスピードを限りなく早めることで生存確率が高まっていく。特に野良ではこの判断が少しでも遅れたら即死に繋がる。自分が今日負けた試合のほとんどが、この判断が遅れたことによるものだと言うことができる。味方がダウンされた時に助けに行ってしまったり、ひとつの戦闘に時間をかけすぎて漁夫の利狙いを呼び寄せてしまったことなど、その原因の大半が判断の遅さに由来する。

ある解説動画で言っていたことだが、試合においては不確実性を限りなく減らすということが極めて重要だ。フルパーティがなぜ強いのかと言えば、情報の意思疎通がとれていて目的意識や戦略を共有し即座に判断を下せるからだ。野良は違う。野良は互いの力量や目的意識がはっきりせず、情報共有の手段がピン以外にない。つまりより不確実性が高い。

だからこそ誰かがリーダーシップを取り試合の方針を決めることが一層重要になる。その誰かが現れることを待ち期待する、これでは不確実性が増すばかりだ。最も確実なのは自分がしっかりした判断を下し続けるということだ。もしそれができていれば、毎試合場面展開を有利に動かしてくれる味方と遭遇することと同じことになる。

この判断はゲームに限らず、人生のあらゆる方面で生かせる教訓になる。不確実な混乱の中で流され続けるよりも、またその中で誰かに期待し、誰かが当然助けてくれるものと考え、そうでなかった場合に勝手に怒りを感じるよりも、自分という最も確実な指示系統を最大限活用し、不確実性を減らし自分が状況を有利に動かすことができる状況を生み出すことが重要である。それは言葉だけの綺麗事ではなく、中身を伴った有効な手段である。

ただしこうした判断は、自分の判断が妥当であるという場合に限る。当たり前の話だが、自分の判断が間違うこともあれば、失敗することもある。今たまたまうまく行っているからといってそこに満足するのではなく、こうしたミスを起こした際に何が原因でどう改善すればいいのかを常に反省する必要がある。地道なことだが、この作業を怠ると後々原因不明の連敗を重ね400RPを溶かすことになる。