人生

やっていきましょう

9日目

ストレスが消えた。目覚めから昨日の日記を確認し、食事、そして読書を行った。そのまま映画に移行して、夜になったらゲームをした。ここまでスムーズに事が運び、気がついたらストレスが無くなっていた。最悪の生活だがまた前向きになれた。今週も目標の達成に向けて頑張りたい。

今日は図書館が休みだったから部屋で本を読んだ。カミュの異邦人だ。殺人の動機が「太陽が眩しかったから」という有名なやつだ。第1章は少し退屈だったが第2章から面白くなった。法廷に監獄、独白、それに面会があったからだ。内容については自分の理解がまだ追いついていない。ムルソーは殺人の自覚なく人を殺した。彼の動機はまったくの不明瞭だ。彼自身なぜ殺したのかが分かっていない。そして検察にどんどん悪いように解釈され死刑を宣告されてしまう。それでもムルソーは懸命に反論するわけでもない。この無意味な裁判がはやく終わることしか考えてない。この本を読んでいて彼に対する感情移入がまったくできなかった。だからほとんど退屈で眠くなりそうだった。

しかしふと自分が当たり前のようにムルソーを異質だと決めつけるいかなる理由もないということに気づいた。彼はあらゆる意味に執着がないのだ。ママンの死からマリイに対する愛情、レエモンへの友情から自らの殺人、そのすべてが彼にとってどうでも良かった。

すべてが無意味であることをことさら自覚しながら、意味を信じる者たちと対面すると妙な違和感を覚えることがある。自分の場合最もそれを感じたのは就活の面接だ。あの儀式はすべてにおいて茶番であると感じた。学生はひとつの企業だけを選ぶわけではない。複数の企業を当然併願する。そうでありながら企業はなぜ他ならぬ弊社を受けたのかという理由を求める。つまり忠誠心を求めるわけだが、とりわけ忠誠心を示した人間でさえ企業は平気で突き落とす。したがって学生は口先だけの美辞麗句を並べ立て見せかけの忠誠心を示す一方、複数の企業を裏で併願し同じような賛辞を企業に送るようになる。社会には当然建前だけはうまい人間が蔓延る。自分は大学の就活課で目にした女のハキハキした話し方、男のこれでもかと言わんばかりの誠実さに反吐が出た。彼らは誰に対してその誠実さを向けているのだろうか。彼らは入れればどこでもいいのだろうか?だとすれば忠誠心とは?忠誠心がすでに虚妄ならばなぜ企業は能力主義を採用しないのか?自分はこの矛盾に対する明確な答えが得られず、全ては無意味な茶番だという自覚を抱えながら、それでも必死に自分を取り繕おうとして、見せかけの嘘を本当だと思い込むようにして(これはオーウェル1984年の二重思考のようだ)、しかしうまくコントロールできず、ついには何も言えなくなり、極度のストレスで精神が破壊され、最後にはすべてを投げ出した。

自分は社会にとって異邦人だ。しかし半端な異邦人だと思う。不条理というものの自覚はあったが、社会に出て活躍したかったし、働くということにことさら執着していた。本当は不条理に屈したくなかったのだ。しかしムルソーのような異邦人を自分は知っている。不条理を自明のものとして受け入れ、あるいは無かったことにして、それについて何の執着もないような人間だ。

自分には2人の友人がいる。どの友人であるかは伏せる。彼らは共通して不条理というものを何らかの形で克服している。1人目は不条理に無関心、あるいはその存在を無かったことにして自らの夢という目標に突き進んでいる。自分の視野に不条理がないのだから、彼は不条理に臆することなく前進した。つまり無意味であるという前提を忘却することに成功したのだ。

もうひとりは不条理に受け入れた友人だ。不条理はもうどうにもならないのだから、あらゆることに執着をなくし身の回りにある娯楽を刹那的に享受する。彼には社会的野心はなく、夢もない。かといってストレスを抱えているわけではない。彼は完全に何者かに傷つけられることなく、主観的な自由を確立していた。つまり無意味であるという前提を受け入れ自由に生きることに成功したのだ。どちらかというと彼が最もムルソーに近い。

この2人を見て自分は僅かな嫉妬を感じていた。自分が抱えている苦痛を彼らは歯牙にも掛けないようだったからだ。自分は意味にこだわり抜いた。そして無意味の自覚に至った。その間には深刻な落差がある。自分は挫折という形で絶望に真正面から向き合った。にもかかわらず、自分はまったく救われていなかった。これもある意味不条理との向き合い方だ。こういう人間は落差に耐えきれずに自殺してしまうかもしれない。

以下の引用はWikipediaの「不条理」の項目から採用したものだ。偶然だが我々3人の状況を端的に示している。

不条理主義者の哲学の中では、不条理は人による世界の意味の追究と世界の明らかな意味のなさの基本的な不調和によって生じるとされる。意味を持たない世界で意味を探す。人はこのジレンマを解決する3つの方法を持っている。キルケゴールカミュはその解決法を著書の中で書いている。『死に至る病』と『シーシュポスの神話』である。

  • 自殺:まずシンプルな1つの方法として人生を終わらすということ。キルケゴールカミュはこの方法が非現実的であるとして退けている。
  • 盲信:不条理を超えた何か、触れられず実験的に存在が証明されていないものを信じること。しかしそれをするには理性を失くす必要がある(すなわち盲信)、とキルケゴールは言っている。カミュはこれを哲学的自殺として考えている。
  • 不条理を受け入れる:不条理を受け入れて生きる。カミュはこの方法を推奨しているが、キルケゴールはこれを「悪魔に取り付かれた狂気」として、自殺を引き起こす可能性を論じて批判している

自分は明らかに自殺の道を突き進んでいた。しかし友人たちは盲信と不条理を受け入れる方向にそれぞれ進んだ。自分は現状、ムルソーとそれに近い友人の方向に向かっている。しかしムルソーに感情移入が出来なかったのは、それでは満足できなかったからだ。

自分は前者の友人のように大いなる夢を描きたい。その夢の実現こそ生きた証だと思いたいのだ。しかし自分にはそれがない。自分の中であまりにも不条理に対する自覚が大きすぎたのだ。今は傷心の中でただ漂っている。しかしいつかはやり直したいと思うのは無駄なあがきだろうか