人生

やっていきましょう

10日目

今日もストレスはない。図書館に行き、ゲームをし、風呂に入った。快楽が持続しているとストレスが介入する余地がない。映画を見ればよかったという後悔はあったけれど。あと2本見ていない映画がある。

本は今、筒井康隆のSFを読んでいるところだ。変な話だが、SF好きを自称しているのに彼の本を一度も読んだことがなかった。初めて読んだ感想はとても面白いという印象だった。安部公房の『壁』を読んだ時の感覚に近い。この二つには共通点がある。どちらも妙に軽々しく、くだらないけど時折感じさせる深みがあり、要するに面白いのだ。この場合の面白さとは、興味深いというよりはむしろ笑えるの方だ。本を読んでいるとき自分は本当に笑っていた。

そういえば星新一を読んだときも同じ感想を覚えた。色々なものが妙に軽々しいのに本質的なところはちゃんと抑えている。それを崩したり誇張したり茶化したりするのが特徴だ。この感覚をもっと正確に言語化できないかずっと模索していた。それでやっとわかった。これは藤子・F・不二雄の『ドラえもん』なのだ。

自分の浅い読書経からして、この軽妙なSFというのは日本独自の路線ではないかと思う。クラークやギブスンのようなハードなSFを日本ではあまり知らない。いや、知らないだけかもしれない(強いて言うなら攻殻機動隊か)。しかし筒井康隆を読んだとき、自分が今まで見てきた日本のコンテンツのあらゆる要素を見いだした。そんな気がした。これは既視感だ。自分が日本のゲームや漫画やアニメや映画が面白いと感じるとき、だいたい筒井康隆っぽい調子が読み取れた。まるで彼の本を読む前に彼をよく知っていたかのようだ。

きっと脚本家や小説家が必死になって彼を吸収したのだ。先程ドラえもんと言ったが、軽妙さを薄めれば『世にも奇妙な物語』にも近い気がする。世にも奇妙な物語は放映されると大体みんな釘付けになる。それはよくわかる。全体的にくだらないがそのくだらなさが楽しい。

彼の本はとても面白い。しかし少し気になる点もあった。どうしても古い作家なので全体的に古い印象を持つ。そして作中に見え隠れする作者本人の愚痴が多い。古さも愚痴も普通なら気にならない。だがこの二つとも、自分がまさに抱いている時代感覚と不満そのものだった。あまりに感覚が似すぎていて自分自身驚いている(もちろんすべてがそういうわけじゃない)。自分が自分に説教されているみたいで妙にバツが悪かった。親に叱られる子みたいな感じだ。感性が似ているのであーすごいわかるという感じと、言われなくても分かってるよめんどくせえなという感じ、言われたら都合が悪いからもうそれ以上言わないでくれーうぎゃーーという気持ちがごっちゃになってやってくる。それで一気に読むにはすぐお腹いっぱいになる。借りた本はSF短編が25編あるが4つ読んだだけでもう満足して見たくなくなった。他の本が読みたい。明日は別の本を借りよう。多分そのとき、一緒に筒井康隆も借り直すと思う。そんな作家だ。

 

ところで最近、ブログがただの読書感想になっていることを危惧している。自分の生活の大半が読書かゲームなので仕方ないが、これでいいのかと思う。目標を問題なく達成できた日には語るべきことがほとんどなくなる。だから本の感想を書くしかなくなるのだ。自分は批評家と名乗るほど見識も背景も知らないので、思いついた言葉で語ることしかできない。そんなものに何の価値があるかと言えば何もないが、記録の習慣に生まれた必然の余白をどう処理できるかと言えば他になにも思いつかない。自分の過去を感傷的に語るのもまあ悪くないが、そういうのはつまらない本を読んだ時の保険として取っておく。というわけで仕方なく読書感想文を書いているという次第だ。

習慣は安定を生む。安定は退屈さを生む。記録もいよいよ安定期に入り退屈さが出てきた。その退屈さを誤魔化すのに読書は大いに役立っている。今のところ退屈さを自覚することはほとんどない。ただ読書だけではつまらないので近いうちに映画やゲームにも言及してみようと思う。ただし本来の目的、自尊心を確立して生活習慣を改善し、その維持を習慣づけるという一番の目的は見失わないようにしたい。それを見失ったらこのブログに何の意味があるというのか。