人生

やっていきましょう

21日目

今日は少し訳あって東京に来た。ついでに上野の東京国立博物館に行った。特別展示の仏像と、法隆寺重要文化財を見に行った。美術館や博物館にはよく行く。様々な地域の芸術や作品を見るのは刺激的だ。それらは大抵過去のもので、自分が生きてきた時代とは別の時間に作られたものだ。自分が見た仏像は飛鳥時代、1400年以上も前のものだった。そんな昔にこんなふざけた仏像があったなんて信じられない。よほどの暇人だったに違いない。そんな風にあれこれくだらない考えるのが面白かったりする。

それでも最近、そういう楽しみ方にも飽きてきた。何を見ても似たようなものに見えてきて関心をあまり持つことができないからだ。自分の審美眼が腐ってきている証拠だろう。だがそれ以上に自分の視力に問題があると思う。

自分の視力は悪い。悪いといってもそれほどではない。9割くらいはちゃんと見える。だが残りの1割が問題だ。この1割のせいで、自分は奇妙な感覚に襲われている。それは丁度、精巧なコンピュータグラフィックスと実物の違いがほとんど見られないのと同じだ。つまり、自分は現実と仮想の区別がよくできていないのだ。

自分はすべての作品の詳細までは見えていない。ほんの少しだけぼやけて見える。だから絵画なり彫刻なりがしっかりとそこに「ある」ように思えない。ゲームのCGを見ているような感覚だ。触れてようやく、自分の見ている映像と触っている対象が紐付けられて「ある」と分かる。逆に見ただけではそこに本当に「ある」かどうか疑わしく感じる。

こういう状態が7年くらい続いている。視力がはっきりしないと、物事の認識もズレてくる。芸術鑑賞の際、細部にあまり目がいかない。大体の全体像を見て、その良し悪しを確かめるような感じだ。芸術の好みが写実から印象に移行していくのが分かる。すべてがだんだんと曖昧になっていく。

芸術には曖昧な楽しみ方というものもある。だが常にはっきりと見えないというのは苦痛だ。概観だけを見て既視感に襲われるばかりで細部を見ることができない。これは危険な状態だ。視覚は人間の認識の大部分を占めている。つまり視覚から得た情報が人間の物の考え方に多大な影響を与えている。曖昧に支配されたらますます世の中がわからなくなる。どこかで曖昧を振り払い認識を安定させる必要がある。ブログはそのための記録でもある。曖昧な全体像だけではなにもわからない。細部だ。細部を見る努力をする。そしてそれを持続しようと思う。

帰ったらそのまま疲れて休んだ。そこから先はゲームで遊んだらしいが、あまり覚えていない。