人生

やっていきましょう

27日目

今日は今やっているオンラインゲームでギャンブルをした。ギャンブルと言ってもゲーム内の仮想アイテムがチップだ。知り合いがカジノを開くというので最初の客になった。種目は元々ルーレットだったが、システムの都合上限界があり、急遽トランプに変更された。中身はブラックジャックだ。

ブラックジャックのルールは簡単だ。互いにカードを引いていって21になるようにすればいい。Aは1か11、JQKは10扱い、その他のカードは数字通りだ。ただしディーラーは17以上になるまでカードを引かないといけないし、21を過ぎたらその時点でディーラーも参加者も負けになる(両方とも21を超えた場合は引き分けになる)。

ディーラーと参加者が2枚引いたらディーラーは1枚だけ表にして参加者は2枚表にする。そこでhit or standと言い渡される。hitはもう一枚引く、standはそこで引くのをやめることを意味する。参加者全員がstandしたらディーラーが引いていく。それで結果が出てゲームは終わりだ。

このゲームの面白さは17から21の間のどの数字で止めるかを考えるところにある。たとえば17でも危険な橋を渡って21に近づけるか、17でとどまり相手が21を超えるのを待つか決断を迫られる。

更にAを引いた時も手汗を握る。Aは1にも11にも解釈できる。だから持ち札で10に近い数字とペアになったら21に近い数字で勝負できるし、それが21を超えてしまったらAを1と解釈し直してもっとhitができる。残機が2つあるようなものだ。

そして何より自分の結果や相手の結果を見る瞬間だ。自分がhitして21を超えた時の絶望感。現実逃避をしてカードのオープンを拒む敗者、駄々をこねて泣きわめく敗者に向けて冷徹にオープンを宣言するディーラー、敗北という現実に直面する自分。全財産が消える瞬間。この高揚は高レートでしか味わえない。今日自分はまさにこの絶望と高揚を味わった。つまり、高レート勝負を挑み、それに負けたのだ。

ギャンブルにおいて決してやってはいけないことがふたつある。ひとつは相手の挑発に乗せられること、ふたつは負けた額の二倍で勝負することだ。もうお判りかと思うが自分はその両方をやった。そして全財産を失った。

最初はちまちまと100掛けていたがあるとき400を掛けて勝った。800が戻ってきた。自分は冷静だったので、次は100をかけた。そこでディーラーに桁がひとつ足りないじゃないですか?wと嘲笑混じりの挑発を受け、他の参加者にはなさけない等の挑発を受けた。それでも負ければ良かったが、なんと勝ってしまった。1000勝てたのに自分はそれをしなかった。これで冷静さを失った。次は有無を言わさず1000を掛けた。勝てると思った。が、案の定負けてしまった。破れかぶれになって残りの全財産500を全てつぎ込んだ。それも負けてしまった。

もうひとつギャンブルで決してやってはいけないことを思い出した。それは自分の生活費に手を出すことだ。自分はそれをやった。闇市で40万相当に該当するアイテムを購入した。チップは1000枚になった。勝てると思った。しかし負けてしまった。はじめ絵札(J.Q.K)を引き勝利を確信したが、次に引いたのは5だった。15というのは一番微妙な数字だ。standできないし、hitで絵札が来たら一発で死ぬ。自分はどうか絵札は来ないでくれと神に祈った。しかし引いたカードは絵札だった。自分は神はいないと思った。

そこから闇市に走り80万を投じて2000チップを買いに行くまではそう長くなかった。これで生活費120万を投じたことになる。元々持っていたチップをあわせれば180万の出費だ。自分は神に祈り頼むからこれで勝たせてくれ、勝たせてくれと地に頭を擦り付けて何度も懇願した。しかし一度信仰を捨てた棄教者に神は微笑むことはない。神は自分に最も絶望を与える形でその敗北を宣言した。はじめに引いたのは3と絵札だ。またこのパターンだ。まさかと思ったし、そう悪い偶然は続かないと思っていた。だが断言してもいい。神はいないが悪魔は存在する。自分が次に引いたカードは絵札だった。自分は破産した。しばらく何もできなかった。茫然自失としていた。

この世に意味はないと考えるようになってしばらく経った。しかし意味はないとしても、この世には依然として刺激というものがある。意味の無さに開き直り自制心の霧が晴らすと、刺激というものが一層映えて見える。つまり、刺激というものが純粋な生の躍動に見えるのだ。この世はギャンブルだ。時間というチップをかけてそれが尽きるまで何度も挑戦する。勝てば名誉、負ければ恥辱、人は勝利を求めて死の淵に立つことを選ぶ。

しかし自分はどうだろうか。たしかにギャンブルでは勝つことを望んでいた。だがどちらかと言えば、勝ち負けにこだわる態度ではなかった。ギャンブルという性質そのものに自分は没入していた。刺激だ。莫大なアドレナリンを獲得するために自分の命を張る、それ自体を求めていた。勝ち負けではなく、自分を危機的状況に置いておきたかった。なぜならそうすることで、自分は生きていると実感できるからだ。だから自分は、以前のギャンブルを含め4500は負けているが、悔いはない。なぜなら敗北という絶望の中で自分はたしかに生の実感を得られたからだ。自分は刺激を得るために自殺をしていた。しかし、大局的に見ればそれこそ人間が生きるということではないか。

ここまで大層なことを言っておいて何だが、実は40万や80万、140万というのは円ではなくゲーム内通貨だ。1.2日ボスを狩っていれば普通に貯まる程度のものだ。円にすればだいたい100円相当の損失か。つまりただのお遊びだ。それにディーラーも参加者も自分の知り合いだ。本当に悪意があって煽ってきたのではない。しかし敢えてそれを最後まで言わなかったのは、自分がそのとき感じた緊張感を同じ目線で味わって欲しかったからだ。これが現金だと思うとぞっとする。しかしこれを地で行くのが本場のカジノだ。そして今日も何百人という敗者を地獄に突き落としている。

この話には意外な結末がある。自分が4500も負けて絶望の淵に立っていた時、観客が1000チップわけてくれたのだ。自分はそれを賭けて負けてしまったが、その観客はさらに1100チップくれた。どうせ勝てないと思って適当に札を揃えていたら勝ってしまった。さらに獲得した2200チップを賭けて勝負したらこれも勝った。4400の勝利だ。それから借りた2000を彼に返却し、端数をそろえるために442くらいを賭けて勝負した。これも勝った。だいたいこのゲームで得た金額が3000くらいだ。もらった2000チップを返してしまったので損失は僅かにあったが、それでも前よりは良かった。自分は最後の最後に救われた。だがたまたま運が良かっただけだ。彼がいなければ自分は4500の損失を抱えていたのだ。

ギャンブルは確かに面白い。だが注意が必要だ。こんなバカげた賭け方を現実でやる気はない。ゲームだから、失ってもいい金だったから賭けただけだ。所詮は仮想の刺激だ。だが仮想と現実の区別はつけておかなければならない。現実というギャンブルではより注意深く、より確実に勝てる勝負を選ぶべきだ。無論すべてがうまくいくわけではないが、どこにどれだけbetするかというのは頭の使い所だ。理性でそれを選択することを忘れてはならない。さもなければ早死にするだけだ。

すべてが終わりどっと疲れがでた。これが終わったのは夜中の3時だ。また習慣を守れなかった。