人生

やっていきましょう

38日目

今日は図書館行ってゲームをして終わった。読書は3時間したがあまり集中できなかった。帰ってからも何かしたというわけではなかった。無駄に時間を過ごして終わった。無意味な1日だった。今日のような日はできるだけ無くさなくてはならない。とにかく自分の糧になる1日を増やしていきたい。

やはり中期目標の必要性を強く感じる。確かな目標がない今、日々の習慣をこなすという刹那的な生き方になっている。ある意味、最も人間らしい生き方をしている。こういうやり方は100kmを超えるような長距離走なんかでは有効だ。全体として長い道のりに絶望する代わりに1日1日、ポイントからポイントという刹那的な目標の連続と捉えるのだ。人生も同じだ。刹那的に生きて辛抱強く待てばあっという間に死ぬことができる。だがそれでいいのだろうか。自分は刹那的な生き方には満足できない。真っ先に虚無を感じてしまうからだ。虚無を感じると何もできない。それが苦痛だ。次第に頭痛がしてめまいがしてくる。何も考えず日々を過ごせたらどれほど良かったか。

虚無から逃れるためには、自分の人生というストーリーを描かなくてはならない。バカげた話だが、長距離走を苦痛の連続として捉えるのではなく、遥か先に待ち構える人類が未だ到達し得なかった壮大な目標に向かって、頭をフル回転させながら、一歩一歩前を見つめ歩いていく勇敢な戦士の物語と捉えなければならない。自分はそれが真実には程遠い単なる原始的な解釈であるということを知っている。だがこうした類の神話を本気で信じている狂人に、苦痛の連続なる無機質な事実に満足しているような皮肉屋は絶対勝てない。人間を前進させる動機は、虚無を払拭するほどの狂気だ。

しかし我々は狂人たちの末路を知っている。虚無との戦いに勝つことができず、深刻なうつに襲われるか、酒やドラッグに溺れるか、銃口を頭に向けて引き金を引くか、新興宗教に目覚めるか、あるいは精神に異常を来すか、とにかく健康を害することには間違いない。成功者の狂気は伝説と呼ばれ、敗者の狂気は不名誉な史実となる。迂闊に狂ってしまったばかりに多くの狂人たちは傷だらけの死体になる。その山の上に僅かな上澄みだけがいて、ショーウィンドウのケースに飾られる。

自分は狂気的な動機を得るべきだが、狂気に支配されてはならない。そのために理性がある。理性によって狂気が暴走するのを認め、それを調整、管理しなければならない。丁度親が子どもと一緒に遊びながら、同時に子どもを逸脱から守り躾けるように。つまり理性的に狂うということだ。こんなことが可能なのか。おそらく可能だろう。理性的な狂気というのは、たとえばあらゆる価値が総じて無意味であり、意味を信じている人間は総じて滑稽だという事実を深く認識しながら、意味を信じて狂うということだ。これは「敢えて」の産物であり、純粋な狂気には程遠い。だが狂った際の保険と考えれば、十分な投資と考える。