人生

やっていきましょう

47日目

自分が何かをするにしても、それが何であれ、狙いをつけて当てに行くということをあまり考えたことがなかった。日頃の生活もそうだし、大学受験の時もそうだ。とにかく何も考えずに前進するという癖があった。

これはこれで楽しいものだ。大体この調子で進んだ先には自分の予期せぬ展開が待っているからだ。しかしそれが良いものであるとは限らない。危険な領域にいることに気づかず致命傷を負うことだってある。とくに2018年の危機は好例だ。二度と味わいたくないほどの挫折感と絶望に襲われたが、何のことはない、精神が不安定で無計画のまま突っ走って、地雷を踏んだだけだ。

自分が今まで計画を立てて実行することがなかったというのは驚きだ。自分は人より計画的な人間だと思っていたがそうではなかった。その場その場で一から考えているだけで、本当は無計画な人間なのだ。だからここ1ヶ月の習慣づけは本当に新鮮だった。1日1日が以前より安定していることが実感できたからだ。たまに絶望に襲われてすべてが崩壊することがあったけれど、それでも安定の機会が少なからずあるというのは心強い。安定は自分が立ち直る力を与えてくれる。

改めて計画とは何かというのを考えた。計画とは目標に至るまでの明確なプロセスを事前に用意することだ。より具体的に言うと、目標を達成するための道筋、アクシデントの対処、ミスの予防、無駄の省略、効率性と正確さの追求、結果の分析、評価、次の目標への橋渡し、これらをまとめてだいたい計画という、と思う。

自分が今まで立てた計画は道筋だけだ。効率や正確さを評価するには程遠い。自分の実力ではまだそこまで至っていない。だからこそ中期計画はその実演練習であると言える。計画を立てるということがどういうことか、頭だけでなく実感として分かってくると思う。

ところで計画とは独創性の対にある概念だと思う。計画とは自分の目指した目標以外を視野に入れることがないため、あるいはその目標の完遂が第一目標になるため、思いつきや気分の発想というものをなかなか取り入れにくい。世の企業の掲げる集客性のプランは大体どこも控えめで面白みに欠ける。しかし彼らはそうでなければならない。思いつきや独創性によるリスクを計画によって回避する代わりに彼らは安定した利益を得ているからだ。

計画は独創性を殺すという点には以前から薄々気づいており、今まで自分はこつこつと計画を立てるのを避けてきた。その場その場の思いつきを連想させ、その場で直感的な計画を作成し、連想を連鎖させていくというやり方の方が面白いと思ったからだ。この直感は正しかった。事実自分の人生は奇想天外なものになった。

しかし結局それは何を意味するか。企業がもし思いつきの計画とその連鎖でビデオゲームの開発を行ったらどうなるか。信じられないほど奇妙で独創的なソフトが生まれるに違いない。それは人々の心を掴み信じられないほど売れたかもしれない。だが常にそんなソフトが生まれるといえるだろうか。自分が創作に携わった経験から言えば、無計画の見切り発車によって生まれた創作は、夥しい数の駄作とゴミの山を築く。その中に光るものが1つか2つある程度だ。それにそんなゲームが完成しないこともある。完成に要するひらめきが10年経ってもやってこなかったと思われるゲームを自分は知っている。

駄作とは言うが、自分にとっては純粋に面白いものが圧倒的に多いと思う。だが物語として完成せず投げ出したり、細部が面倒になって逃げ出したものばかりだ。無計画とはこういうことだ。奇想天外な物語が始まり、勝つか負けるかのギャンブルに何度も挑戦して、最後には人生に行き詰まり自殺する。

自分が奇想天外なギャンブルで失ったものは声と対人能力と人を信じる能力と人生のレールだ。人前で話せないというのは、この予測不可な人生を歩んできた自分と周りの人間を同一視してきたからだ。自分だってこれから何をしでかすか分からない。相手だって何を考え何をしてくるか分からない。だからいつ死ぬか分からない恐怖に怯えて生きてきた。まるで裏社会だ。誰も信じられなって人と話せなくなった。しかしおそらくこれは誤解だ。多数派は安定志向で、安定した振る舞いには安定した振る舞いで返してくれる。彼らは共通の約束事で常識や当たり前という安定した関係を築くはずだ。おはようと言って自分が斬り殺そうとする人間は多分いない。

この社会が夥しい数の計画によって構築されていることに目を見張るべきだ。彼らの築き上げた建造物やインフラ、商売、運搬、医療、サービス、農業、道具、技術、理論、まだ見ぬ未知への研究、それに政治、教育、ゲーム、スナック菓子、アベンジャーズ、書物、それらがあたかも偶然の産物のように見えるが、実際それは無数の計画によって生み出されている。

計画的な人間は優秀な人間に多い。特に大企業や士業を目指したり、自営業者や学者になるような人間はこの計画という点について頭一つ抜けていると思う。自分はそういう同期を見てやはり面白みに欠けると思っていた。しかし彼らはそうすることで致命傷を回避しているのだ。自分が瀕死の傷を負って初めて気づいた。思いつきの連鎖を続けていればいずれ壊れると。独創的ではないにしろ、彼らは計画によって今も困難を乗り越えて生きている。

彼らのおかげで社会は維持されている。自分が挫折し自殺を考えた時、自分の状態にかかわらず社会が問題なく機能していることに強い印象を受けた記憶がある。自分が死んでも社会は終わらない。死ぬのは自分だけだ。人は死んでも計画は残る。自分が死んでも人は希望を語り続けるだろう。それが昔からの計画だからだ。

生きる上で計画は重要である。動物と異なり人間だけが計画を立てられる。自分がもし人生を諦めて自殺するのでない限り、計画を立てなければならない。自殺をするのだって計画がいる。計画は避けられない。気分や思いつき、独創性というものを強く支持していたとしても計画は避けられない。死ぬまで計画を立てなければならない。そのために虚無は忘却される必要がある。