人生

やっていきましょう

59日目

図書館が開いてなかったので家で勉強した。今日も簡単だった。簡単な単語を覚えるのは楽だ。人生もこんな感じであればいいのにと思う。

自分の人生は苦痛に満ちていた。その原因の大半は自分の利益よりも他人の利益を優先させたことに由来する。機会を他人に与え続け譲り続け、自分には与えなかった。

奇妙なことに、学校の教師は皆そうした態度を模範としていたようだった。博愛精神に富み我欲を抑え慎ましく生きる人間は完成された人間であり、誰もがその態度を確立すべきものであると考えていたようだった。

しかしそうした模範的な態度こそ社会では足枷になるということに自分は気づいていなかった。自分は模範を実践していただけなのに、人からは軽く見られ、優柔不断と笑われ、自尊心を傷つけられ、年々被害妄想は強まっていき、自分はますます病んでいくばかりだ。態度は模範なのだから誰も止めてくれない。他人にとって都合が良いのだから止める理由がない。

自分の精神を更に追い込んだのは、このことが自分で納得したものではなかったということだ。自分は本来強欲でやりたいことは我先にやるような人間だった。善人ではないし、他人に機会を譲ることに満足を感じたことはほとんどない。だからますます病んでしまった。これは自分の選択ではない。親と教師と同級生が求めているから「仕方なく」道徳を実践するのだ。それが自分のアイデンティティだ、と思うようになってしまった。だが今思えば親も教師も同級生もそこまで求めていたわけではない。ある時期から自分はそういう妄想を過度に誇張し、加速していたのだ。

与えられた義務としての模範。慎ましさによる機会の損失、自尊心の欠陥。これらの要素が重なって、自分はつぎのような人間になった。

自分は自分の選択に自信が持てない。常に監視されている恐怖がある。自分は本来の自分ではないと感じている。やろうと思えばいつでも周囲の人間に悪意をばら撒けるのだと感じている。いつも決断するのが怖いから先延ばしにする。失敗ができない。完璧主義。責任感が強すぎて責任を持ちたくない。ネガティブ思考。自己犠牲。自己憐憫。自分は生きる価値のない人間なので社会は自分を蔑んで当然だと感じている。斜に構えて物事を冷やかに笑うことしかできない。自分を確立した人間たちを妬んでいる。常に優越の根拠を探している。人間不信。自分がここにいて良いという安心感がない。

これらの要素は自分に特有のものであると思っていた。しかしインターネットを通じて同じような悩みを抱えているような人間がいるということに気がついた。彼らに共通するのは小さい頃から真面目で大人の言うことを素直に聞いてきたが、それがうまくいかず不信感を抱いているという点だ。彼らはそのせいで自分が社会的弱者になってしまったと考えている。

道徳は本来、際限のない欲望をコントロールしてより社会的な活動を可能にするためのものだ。決して何より優先されなければならないものではないし、実現しようとしてすべての欲望を殺す必要はない。しかし道徳の伝道者たちは道徳をどの程度まで浸透させるかということを考えていない。道徳は守るべきものと教えるだけ教えて、あとは各自の判断に委ねられる。極めて無責任だ。確かに人間に欲望があれば勝手に受け流したり反抗したりするものだが、一部の人間はそれを間に受けて自分の欲望を殺す手段として自らに道徳を濫用してしまう。彼らは際限のない模範に対する要求に晒されていつしか自我のない機械となる。流されるうちは動いているが、自分の意思と決断を求められるようになってからは何もできなくなる。

人間はやはり自分の中に内在する本能を基軸として、その発散を人生の目的とするべきだ。道徳はその暴走を食い止める程度に留めておいた方がいい。本能と制約を格闘させて弁証法的に自我を確立させていくことが重要だ。本能とは自分が持つ唯一の味方であり、それが失われたのであれば牙のないライオンだ。

自分には再び本能を取り戻せるかどうかは分からない。一度失われたというのは致命的だ。大抵そこで終わってしまう。だが自分はそうなりたくない。自分はまだ動けるのにすべてを諦めて止まっていたくない。自分は動くことにまだ可能性があると思っている。これは見栄ではなく本心だ。世界は虚無で何をしても無意味なのだが、動くか止まるかを考えたら動く方が性に合っている。なぜなら動くということは変化するということだからだ。たとえすべてが無意味であったとしても、変化に興味を見いだす限り、自分は動き続けるだろう。