人生

やっていきましょう

60日目

今日も図書館で単語をやった。いつも通り淡々とこなして日が暮れた。帰ったら少し休んですぐに寝た。明日にはまた単語をやることになるだろう。

単語帳を回していると、以前使っていた単語帳と同じ単語に遭遇する。そういう時に些細な楽しみを覚える。他のことはあまり記憶にない。

単語は今週中には終わるだろう。今のうちに次の予定を立てたいと思う。まずは文法。次に読解とリスニング。うまくいけば模試もできる。まだ1ヶ月と半分ある。焦らずじっくりと考えていきたい。

今日は少し自分の内面を振り返る。

最近どうしようもない怒りを感じる。苦境に落とされた原因をすべて他人のせいにしたい。自分を制約し続けてきた世の中すべてを呪ってやりたい。そして自分は悪くなかったと叫びたい。

自分は悪くないと思いたい、これが本能だ。欠落した心が自己正当化を求めている。他人が自分を正当化しようとしているのだから、自分も自分を正当化したい。なぜ自分だけそれが許されず、不当な思いをしなければならないのか。そう思うとますます腹が立ってくる。

自分だけが常に腰が低く、良いと思ったことには愛想笑いで返し、悪いと思ったことには頭を伏せて何度も謝罪する。裁量は常に他人にあった。こうでもしなければ、万人に分け隔てなく接することなど出来なかった。

一番腹が立つのは、こうした善意がまったく感謝されず、周りから都合の良い人間のように扱われていると感じた時だ。善意を与えても相手は善意で返してくれない。どこも自分のことしか頭にない。それで人間不信になった。

他人は全員敵に見える。もう誰とも関わりたくない。全員が嫌いだ。みんな殴り飛ばしてどこかに消えたい。

ここまでは怒りに任せて自分の感情に向き合った。ここからは自分の感情を冷静に評価する。

自分の主張は以下の通りだ。自分は怒りを感じている。その理由は、今まで他人に対して善意を支払い続けてきたのにリターンがまったくなかったこと、自分は今にも朽ち果てようとしているのに誰も助けてくれないこと、つまり善意が報われないことに不満があるということだ。そして自分は幼少からの規範意識ゆえにそうせざるを得なかった、それでも自分は傷つきながら善意を守り抜こうとしたということをだれかに分かって欲しいと考えている。

この願望について次のことが言える。まず善意は必ずしも返ってくるものではない。だから他人の善意に期待して善意を与え続けるのは割に合わないギャンブルだ。この文脈で言えば、自分は賭けに負けたということになる。ただそれだけだ。人生という名の賭場でいかがわしい情報を掴まされて、それを信じて全額張ったばかりに全額スッて破産した。ただのお笑いだ。そう考えてみるといい。そもそも善意は相手の善意に期待して与えるものではないので前提から間違っていた。

また自分がその情報を信じた理由は、善意に溢れていたものだったからだ。基本的に善意は正しいものだと思っていた。人生において人間が求めるべきものは善だ。その規範は学校教育が布教した。善の実現のために教師は生徒を大声で叱り、悪は罰をもって退けた。この世界観を相対化し脱却することはできなかった。自分はあまりに若く、素朴だった。周囲から悪いと言われ続ければ、本当に悪いのだと思った。しかしそれはもうどうしようもない。あの時はそうするしかなかったと認めるべきだ。過去はもう変えることができない。また、その時の辛さを誰かに分からせようとするべきでない。分かってくれる人間がいたら歓迎すればいいだけの話だ。それまではなにも期待せず孤独を受け入れるばかりだ。

よく言われる方便のひとつだが、自分がコントロールできないことはひとまず置いて、コントロールできることだけに集中すればいいというものがある。以前どこかで記事に書いた気がするが、この考え方は重要だと思う。自分にはどうしようもないことに振り回されるのは本当に時間の無駄だ。だから怒りの誘因は遠ざけて視界に入れないようにする。それが他人であれ環境であれ、コントロールできないものについては、一定の敬意を持って距離を取らせていただく。それがどう他人に曲解されようが、自己防衛のために必要だという態度を貫く。

さらに踏み込んで考えれば、コントロールできないことの中には工夫次第でコントロールできるようになるものがある。人は難しいが環境は変えられる。あるいは自分。コントロールできる部分を工夫し、間接的に自分に有利な状況を作ることができる。

そう考えたら他人に怒るよりも考えたり行動した方がいいということがわかる。それに自分は今現在、利害の衝突を起こす環境にはいない。何をしても大体自分の利益になる。誰とも関わらずここには自分しかいない。だから競争では常に1位だ。ローリスクハイリターンだ。

コントロールできる範囲のことだけ考えることを常に意識することができれば怒りに惑わされることはない。完璧でなくともある程度は制御できるはずだ。過去のことや他人については距離を置く。コントロールできる現在のことだけを考える。そうすれば今よりマシになるのではないか。

最後にこの危うい自己啓発的な態度に釘を刺しておく。他人に怒るよりも自分を変えるという態度が常に有力であるとは限らない。常に自分が悪い、だから改善しなければならないと思っていれば、いつでも相手に付け込まれることになる。時には自分の正しさを訴える強さも必要になる。今は便宜上改善が利することを強調しているが、利害の衝突が起きた時に自分を押すべきか退くべきかを考える判断力は常に持っておきたい。