人生

やっていきましょう

68日目

自分が人生のあらゆるものには意味がないと悟ったのは度重なる挫折が一度に訪れたことが直接の原因であり、その傷が痛んでいるうちは価値を認め直すことも新たに発掘することもないだろう。これがおそらく自分の現状に対する最も妥当な評価である。この認識を歪ませて自分は悪くないと思ったり他人のせいにしたり、あらゆる物事の無意味さを過度に誇張して悲劇の英雄を気取るか使い古された不毛な厭世観の虜になるか、それともすべてを諦めて自殺するか、いずれを選んでもいいだろうが、しかし自分が今どういう状況にあるかを正確に判断しようとせず自分の苦境をただ正当化するだけの行為は総じて不毛だということを常に自覚しておくべきだ。

自分が認めたくない事実というのは誰でも何かしらひとつはありそうなものだが、現状の難局をプライドのような類で歪曲してそれがさも真実であると判断するのは危険だ。確かにこの世界は定義可能というにはあまりに不明瞭で、自分自身厳密な定義を敷いて適切な評価を下せるほど優秀であるとは思えないが、だからといって自分の希望的観測を事実と置き換えるのはあまりに早計だ。少しでも解決を目指そうとするなら、物事を自分の私心を切り離して考える術というのが必要になってくる。それができない人間はただ大波に飲み込まれるというのが経験者としての自分の考えだ。

この世の不条理に意味を見出すことがそもそもの間違いであり、不条理は不条理として受け取るのが最も妥当なことのように思う。しかし人間は不条理に耐えられるほど強くない。とくに価値観の崩壊を経験した人間はそうだ。強く意味を求める。自分の失敗には意味があったと思いたいのだ。しかし現実には意味がない。直接の因果はなく、せいぜい意味をこじつけて何かの動機の足しにするくらいだ。

世界は個人の願望によって変化するのではない。願望の有無にかかわらず個人の行動の結果が世界に蓄積されていくだけだ。これは最も辛辣な事実かもしれない。救いを求めて祈ったとしても条件が合わなければ人は簡単に傷つき、病み、死んでしまうからだ。祈りは条件に入らない。通じないのだ。

しかしそれを受け入れなければならない。受け入れる強さを身につけなければならない。世界は空虚であるということを認めなければならない。自分の中の価値観が死んだことを受け入れよ。世界にはただ混乱だけがある。