人生

やっていきましょう

70日目

自分が社会的弱者であるということについて色々思うことがある。小学校の頃から自分の社会性の無さを自覚しており、クラスの主流でないボス格に目をつけられファミリーの一員をやらされたり、対等な友人と思っていたオタクに自分の偏った興味を一方的に押し付けられこちらの話を一切聞く耳を持たれず嫌な思いをするなど、人間関係においては常に底辺を歩んできた。また自分の私心を出すことが結果としてクラスの人間に迷惑をかけることに繋がるということを認めはじめたのもこの頃で、以来自分の意思を殺し他人の都合で生きる術を身につけ、人との関わりを避けて自分の殻に閉じこもるようになった。

一見してこの態度は妥当なように思える。他人に道を譲り自分は多くを求めないというのは成熟した人間の態度である。控えめで誠実で素直で足るを知る子どもはそれゆえ高く評価される。教師や親はそれを模範と称する。

しかし未成熟な子どもがこうした大人たちの理想を抱えるというのは問題があるように感じる。小さいうちから自分を控えめな人間にすることは自分を持たず優柔不断な人間を生み出してしまう。自分も例に漏れずそうなった。自分を持たず利害の衝突を避け続けるというのは、最も妥当であるように見えて、実は最も自分を危うくしてしまっている。自分では何も決められず他人の言いなりになってしまうからだ。

学校という閉ざされた空間では誠実さは確かに意義があっただろう。しかし社会と学校は根本から違う。社会は優柔不断なプレイヤーには機会を与えない。利害を巡る闘争がまず前提にあり、自分を強く見せることが重要である。機会を譲るという行為、誠実さとは強者の余剰がもたらす美徳であればこそ映えるのであって、そもそも何も持たない弱者が誠実を実践したところで臆病者の処世術としか見られないだろう。

社会が利害の衝突を前提としているなら、どうして学校教育はその実情に合わせた武器と戦略を持たせようとしなかったのか。どうして戦場を生き抜く術を教えてくれなかったのかと思う。教えられることを前提としている時点で利害闘争に勝つ気がないというのももっともだが、最も基礎的な部分の造就は教育が担うべきものであると考える。しかしその教育が自分に戦って示せと激励したことは一度もなかった。

結局、学校教育の使命は公務員を作ることにあるのではないかと思ってしまう。国家の目的が国民を守ることにあるならば、その国家が施行する一律的な教育は国家を守る人材に適う人間を育成することにあるはずだ。いたずらに競争心を煽り私心にまみれた人間を生み出すことは、国が抱えるには相当のリスクになる。だから闘争を生きる術というのは教育の担う問題ではない。闘争を求める人間は法の定める範囲で勝手に争うがいいというのが基本的な態度だ。

闘争に立ち向かおうとする意識は、学校から与えられる教育以外の要素で決定してしまう。人間関係や家庭環境、資本、遺伝、自分が置かれている状況が与える影響で決定する。自分は人に優しくすること、仲良くすることに美徳を感じており、自分が私心を出すと常に周りに迷惑がかかるということを鋭く感じてしまうくらい自分の無意識な加害性に怯えていた。そしてこの倒錯した誠実さを貫くことを無条件に肯定する環境があった。このすべてが自分の闘争本能を骨抜きにした。

だからといっていつまでも過去のせいにしてはいられない。コントロールできるのは過去ではなく現在だからだ。経緯はどうあれ、自分は今牙を抜かれたライオンだ。闘争本能が欠落し、他人にひたすら機会を譲り続けている。ヘラヘラ笑い、弱い自分を攻撃しないでくれと道化を演じている。それで他人に付け込まれるだけ付け込まれて、いつも他人の言いなりになっている。この現状から目を背けてはならない。自分はそうやって生きてきたのだということを受け入れよ。

その上で自分は同じ過ちを繰り返さないと決意する。誠実を基本としてもあまりに軽率に扱われるくらいなら闘争を選ぶ。自分で自分に有利な環境を築く。他人に自分の敷地を踏ませない。

自分の人生の最大の欠陥は自分がないということだ。自分がない限り仕事にはつけないし、社会に出ることはできないだろう。自分がないのは誠実さを優先し利害の衝突を避けてきたために、自分を示してきた経験があまりに欠けているからだ。つまり、逃げ癖がついている。現状を改善するには自分を確立し利害を巡って他人と正面から対立することだ。今自分は自己の確立という重大な任務を自分に課している。他人から見れば敗者の言い訳に聞こえようが、自分は今がそれが必要な時期だと判断している。だからこの期間は自分の責任において自己の確立を図る期間とする。この判断を妨害する要素は何であれ闘争する。