人生

やっていきましょう

84日目

今日は疲れたので何もしていない。ただぼんやりとして1日を過ごした。今日は勉強しようと思っていた。単語の復習をやる予定だった。しかし投げ出した。こういう時もある。

最近の気分について少し書く。先週も触れたように気分が落ち込むことはあまり無くなった。自殺衝動もない。以前と比べれば格段に良くなっている。冷静さを取り戻し始め、今まで見えてなかったものが段々と見えるようになった。

例えば自分の不安定さについて。これまで自分はアイデンティティの不在が精神を掻き乱す要因であると考えてきた。だから自尊心を回復させ、自分で意思決定を行うことを誓った。しかしそもそもなぜ自分はアイデンティティを喪失する方向に向かってしまったのか。いくつか根拠はあるが、一言で言えば父性の欠落にあった。

父性とはその名が示す通り、父親が担うことを期待されている役割である。より具体的に言うと規範・ルールを示し、子供の社会性を育てていく性質である。一方母性とは母親が担うことを期待された役割、つまり子どもを優しく包み込み、思いやり、共感、優しさなどを育んでいく性質のことだ。

自分は男として生まれ、男として育てられた。しかし父親は育児に無関心で代わりに母が父性を担い育児教育に専念した。だが両親共働きというのもあり、あまり教育が行き届かなかったようだ。自分は父性を確立できないまま学校に放り出された。

父の背を見て子は育つと言われるように、父性は子に高い理想を示し、社会で戦っていく力を見せつける。これが子の見本となる。しかし自分の父は力強さと高い理想を示すことは無かった。大抵のことは無関心であり、自由放任主義だった。それで自分は自分の目指すべき方向が分からなくなった。

この頃から精神が不安定になった。今までずっと守られることしかされてこなかったので、闘い方を知らなかった。人に会えば迎合するのが常で、自分の価値観を優先させるために闘うということをしなかった。自分は自分を守る鎧を着けずに戦場に放り出され、何度か被弾した。常に自分の頭の中は恐怖しかなかった。

学校はこのあたりのケアをよくしてくれなかった。与えられたカリキュラムに沿ってただひたすら規定通りの授業が行われていたという印象だった。自分が相談しなかったからというのもあるが、相談したところで闘争を煽る助言はしないはずだ。あなたの誠実さと優しさを見ている人はきっといる。だからあなたは悪くないとでも言うのだろう。

しかし自分は学校に愛着を持った。クラスメイトではなく学校の秩序にだ。学校は規範を示した。ルールを与えその規則を守る人間には正当な評価を与えてくれた。自分はそこに父性を見た。そしてその規範を畏れた。規範が父の代わりになるには十分だった。自分はより道徳的、規範的になろうと努めた。そうすることが強さであり、ルールを破る人間は弱い人間だと思ったからだ。

自分は自分の弱さを克服しようとして、強い社会規範を取り入れることで自分を守ろうとした。だが規範を遵守するということが、自分の父性を確立することにはならなかった。規範を守ることが強さなのではなく、規範を守る鋼の意思を持った上で「闘えること」が強さなのだ。その点を自分は履き違えており、規範を遵守することの執着心ばかりが募って、必要以上に精神的なダメージを受けることになった。戦いを受け入れればすぐ解決することも、規範に従うために手は出さなかった。だがそれが自己保身と臆病な本心を隠すための方便ではないとどうして言えるだろう。

元々メンタルが弱い中で、我慢することが力であると思い込み、他人からの刺すような悪意をじっと堪えて耐え続けていた。が、皮肉なことに実際には誰も責めていないし誰も攻撃していなかった。自分は自分の恐怖が生み出した、「かもしれない」という妄想と戦っていたのだ。

本当はどうすれば自分は闘う勇気と強さをものにできるかを考えるべきだった。しかしかといって、今更規範を遵守するという強さを手放したくはなかった。それがなければ自分はこの社会に存在する正当な事由を失うことになると思っていたからだ。暴力を否定し、本能を拒絶する強さを失えば、自分は父性の欠落という問題に立ち向かえない。だから自分の限界に至るまで自分を規範に近づけた。

しかし規範を守るという動機は本来の動機ではない。自分は畏れからルールに従ったに過ぎない。本心から規範意識を保ち人々に機会を譲り続けてきたわけではなかった。本当は本能に忠実で強く勝利を求めていたし、弱さを克服し闘いの中で強くなることを望んでいた。

しかしそれを正当化するいかなる理由も自分は持たなかった。元々自分は父性が欠落しており、父に換わる父性の投影である社会の規範は暴力性を否定した。教師は画一的な指導しかせず、同期は皆規範を煩い闘争の渦中にあった。

利害を争って闘うという父性の命題は、学校の示す規範の正当性と矛盾していた。規範は争いを避け合理的な社会生活を送ることを正当化しても、争いを正当化することはない。人権という形で法の範囲内で消極的に肯定しているだけだ。なぜなら人の闘争本能は生得的であり、自然に行使されるものと判断されているからだ。しかしそうした前提は文明化が進むにつれ、競争は悪で法が自明の秩序であるように理解され始めたように思う。つまり法は自然発生的に起こる闘争を収束させるという前提をあからさまにしなくなった。そして闘争は隠された。

だがいつどこを見ても闘争が常であるということは自明である。学力テストは最たるもので、受験、恋愛、就活、出世競争、スポーツ、フェイスブックスマッシュブラザーズに至るまで利害の衝突するところに闘争はある。それが常だ。平和とはカントが言うように、一時的なものである。

これらの前提を知る機会を自分は持たなかった。しかしどういうわけか、社会規範と闘争本能が両立できる場が存在した。それが勉強だ。学校ではテストで点を取ることが求められ、優秀な成績を修めることが模範であるとされた。そして成績という客観的数値によって自分の強さを図ることができるというのは自分の闘争本能を解放できる数少ない機会だった。そして試験は利害の衝突ではなく個人競技であり、規範と対立しなかった。更に父親が勉強においては遥かに上回る実力を持っているということが父性を感じさせた。これらがうまくマッチして、高校の頃はそのほとんどを勉学に捧げてきた。

しかしその動機は大学入学と同時に見失った。受験に合格したことで規範に足る実力を示し、闘争本能を満たし、自分が規範によってここにいることを受け入れられているとようやく感じた。そこで自分は規範との折り合いがついたように思う。幾分規範に対する畏れは和らいだ。だが大学以降、自分の追い求める父性を与えてくれる存在がいなくなった。すべてが自由であり、自分の頭で考え行動することが求められた。この問題に規範は答えを与えてくれなかった。

自分はそのことに相当なショックを受けた。自分はここにいるべきではなかった。ここにいていいのは、自分がやりたいことがはっきりしており、そのための機会を取りに行ける人間だけだと。理想に燃え、そのために主体的に努力できる人間だけだと。

その時自分はわりと深刻に子どもになりたいと思っていた。子どものように、頑張らなくても存在を受け入れられる存在、存在そのものが肯定される存在になりたかった。そこで初めて気づいたのだが、自分は母性による愛情も欠いていた。無条件な愛情は受けて育ってきたが、自分のメンタルを父性の不在による無力感と恐怖に晒し続け、元からあった母性による「ここにいていいという感覚」を完全に消してしまった。自分は傷ついた兵士であり、いつ負傷兵を敵が餌食にするか分からなかった。不安だった。そういう逆境の中で大学生活が始まった。

自分は何をしたらいいか分からなかった。何が好きかもわからなかった。規範に忠実で逸脱を避けてきた人生だった。規範が父性の投影だったからだ。自分は規範が自分であると悲鳴をあげて強く認めようとした。しかし自分の本心から湧き出る本能もまた悲鳴をあげていた。どこか遠くへ行って強く逸脱したいと思っていた。自分の本心から湧き出る欲求に従い強さを証明したいとも思っていた。アンビバレントな感情に心を掻き乱され自分はおかしくなっていた。そこに大波のように焦りがやってきて更に心を不安定にした。それでも勉学に燃えて、自分の欠損を克服するためにやるべきことはやったつもりだ。だが詰めが甘かった。やっているという実感に対して実際やれている量はほとんどなかった。それほど自分は限界に近づいていた。

そして大学4年、就活と院試でついに挫折した。自分はレールから弾かれ、父性を追い求める機会を永遠に失った。気力も底をついていた。自分は傷を負って大学を去った。そこでようやく悟った。全てが無意味であること、価値観は絶対ではないということ、父性を追い求めることは空虚であるということ。そうして自分は父性の探求と挑戦という神話を喪失し、虚無に落ちた。

そして今がある。挫折から1年が経ち、冷静さを大分取り戻した。あれから学習したことがある。自分はどう足掻いても自分でしかない。良くも悪くも、自分の欠損は自分の一部だ。それをまず受け入れることが大事だ。しかしこれは現状に妥協せよというのではない。現状を知り自分を知った上で何ができるか考えよということだ。自分に出来ることと出来ないことを見極め、自分に出来ることを着実にこなしていく必要がある。そこには今はできないことでも工夫次第でのちにできるようになることもあるという期待も込めている。

父性の欠落は深刻な問題だ。しかしそれを否定してはならない。それは中東の紛争地帯で生まれたことや、生まれながら器官障害を抱えたことと同じだ。起点は変えられない。今の現状で変えられないことをいくら変えようとしても無駄だ。起点を自覚し、自分がその問題とどう向き合うかが重要だ。

自分の場合、父性の欠落は自分の闘争に立ち向かえない弱さの証でもあったが、同時に自分の強さでもあると感じた。なぜなら父性が欠落したことで、より父性を追い求める動機を与えてくれたからだ。これはハングリー精神の源泉となる。虚無を克服し、自分のやるべき道が見つかったら自分はもっと頑張れるだろうと思う。だから否定しない。虚無に落ちて尚、こうして再起を図ろうとしているのは、父性の欠落による後遺症かもしれない。だとすればそれはすごいことかもしれない。自分は無意味に向かって努力できるとまだ思っているのだ。

自分は今どこに向かっているか分からない。一応再起はしようとしているが、別に再起してもしなくても同じことだと思う。再起することに意味はない。しかし動けるなら動いた方がいい。この単純な欲求に従い、自分は動ける範囲の場所をただ歩き回っている。