人生

やっていきましょう

92日目

ストレスに耐えきれず勉強を投げ出した。自分が何をしても無力だという思いが日に日に増している。もう虚無には耐えられない。どこへ行っても何をしても、自分の感情は甦ってこない。努力はしている。進歩も多少はある。しかし何の高ぶりも起こらない。自分の心はもう死んでいる。

向上心と安らぎを求める心が拮抗している。完全に諦めた訳でもないが、かといって努力すればなんでもうまくいくとも思えない。大抵は失敗する。しかしそれでも諦めない。自分は死にかけの向上心を奮い立たせ、進歩という名目のもと自分を破壊する。そうすることが自分の生きる価値を証明する行為だと今でも思っている。しかし随分と前から自分の頭は安らぎを求める感情に支配されている。自分は誰かに今までの苦難を肯定し、もう闘わなくていいと言って欲しいと思っている。だがそんなことが本当にあるだろうか。

自分のように心に傷を負った人間が安らぎを求めるのは、生でなく死だ。生きようとすればするだけ自分の心は痛み、苦しみ、一生癒えない傷を背負う。一度負った致命傷はもう元には戻らない。だから人は死を求める。死は競争も発展もなく、考える必要もない。ただ抜け殻を抱擁するだけだ。そこに究極の安心がある。自分は今まで誰からも肯定された記憶がないが、自殺というのは無条件の肯定であるような感じがする。死んでいるというだけで何者からも否定されることなく漂える。誰も自分を否定できない。

自分は自殺のことを真剣に考えている。生きることにうんざりしている。すべてを諦めてビルから飛び降りる選択は常に持っている。しかしそれをしないのは、まだ遊びの余地があるからだ。

自分にとって人生とはスカイリムやフォールアウトと同じようなものだ。メインクエストというゴールを敢えて遠ざけ、サイドクエストやアイテム集めに奔走する。そうして時間切れになるまで本筋を忘れる。だがマップを開けば、メインクエストは常にポイントとして表示されている。時が経つにつれメインクエストの周辺にはサブクエストが集まってくる。他はもう残っていない。自分はそのマップにはまだ行ったことがない。スカイリムではリフテン、フォールアウトではダイヤモンドシティ、現実では死だ。

ただそれだけだ。自分はまだ何かできると思っている。だから死なない。そこに意味はないが死ぬことも意味がない。使い古された常套句だが本質的だ。人生に生きる価値もないが死ぬ価値もない。だから自然と湧いてくる生きる本能に流されるまま身を委ねよ。これは救いではない。自分を奮い立たせる言葉でもない。どこまでも無意味で冷めた事実だ。

自分は死ぬのは惜しいと感じている。だから今のところ生きていられる。自分は立ち上がりたいと思っている。自分にできることをもっと増やしたいと思っている。しかしすべてが遊びだ。いずれ絶望してすべてを終わらせないとはいえないだろう。