人生

やっていきましょう

93日目

精神が不安定で何もできなかった。昨日に引き続き勉強をせずに横になった。まさかこうなるとは思わなかった。ここに来て精神が崩れるとは。試験2週間前で今更倒れている場合ではない。しかし無理をすれば余計に悪化する。

ゲームでどうにかしようとしたが、自分が今やっていることの意味が分からなくなり、ますます精神が不安定になった。いったいどういうことか。何が不安なのか。

試験に対する不安はない。問題が解けないことに不満はあるが、目に見えた目標だからどこか試行錯誤すればいいという安心がある。

自分が不安になるのは先の話、未来のことを考え始めるときだ。自分はこの先何をやってもうまくいかない、努力も虚しく何も実らず死んでいくという思いに支配される。

そういうことを考えるのは時間の無駄であり、今この瞬間のことだけを考える必要があるというのは散々自分に言い聞かせてきた。実際そうするしかない。しかし、それが出来ない。気を抜けばすぐに不安が押し寄せてくる。自分は不安に対してあまりに無防備だ。

できる人間は不安をコントロールする術を持っている。どんなに屈強な人間であれ、不安を感じない人間はいない。しかし不安に支配される人間とそうでない人間がいる。その違いは何か。おそらく自分で自分を肯定する術を身につけているかどうかだろう。

今まで自分はこう考えていた。自信は他者からの評価に委ねられる。与えられた地位、与えられた名声、評判、皆が認める実績。そういうものが結局は自己肯定感に繋がると。

確かにこれは正しい。昨今の風潮を見れば分かる。誰もが常に何かになろうと必死になっている。メディアはこう喧伝する。君はなりたい自分になれる。夢を掴め。どんな人間でも扉は開かれている。サッカー選手、野球選手、プロゲーマー、漫画家、作家、アイドル、東大生、アントレプレナー。なりたい自分を探せ。諦めたらそこで試合終了だ。

こんなものは市場を稼働させるための方便に過ぎない。しかしなぜこのような煽り文句がかつてないほどに人を魅了し、多くの人間をどん底に突き落として尚、決してその存在を否定されることなく、その地位にあり続けるのか。それは人が皆何者かになろうとして、何かであると言う肩書きを欲しているからだ。その肩書きを持てば無条件で肯定されると思っているからだ。何者かにならなければ、自分は無価値であると考えているからだ。

しかし自己肯定感の強い人間は、こうした不安に揺らぐ様子を見せない。彼には夢があろうが無かろうが関係ない。今の自分をありのままに肯定しているようだ。

自己肯定感は挑戦と闘争心、屈強さから湧くと考えられがちだが必ずしもそうではない。過度な挑戦をしなくても自己肯定感に満たされている知人を自分は何人も知っている。だから自己肯定感に強さは必要ない。

最近思ったことだが、自己肯定感とは身の程を知りそこに満足するということではないか。これは否定的な意味ではない。自分の実力、性格、傾向を受け止めた上で納得するということだ。

ツイッターで誰かが言っていたが、この自分をありのままに見つめる能力がないと人間は安定しなくなる。自分の実力を過度に期待しすぎると理想と本来の実力の間にギャップが生まれ、こんなはずではないと思うようになる。一方自分の実力を過度に卑下しすぎると、それもまた自分の実力との間にギャップが生まれ、自分は何をしても無駄だと思うようになる。

自分は自分が無いという現実に直面し、ある時は自分を高く見積もりすぎ、ある時は自分を低く見積もりすぎた。自分を高く見積もりすぎた時、自分は実力と理想のギャップに苦しみ努力の妄執に取り憑かれ何者かになろうとしていた。自分はどこまでも拡張できると思い込んだ。自分を低く見積もりすぎた時、自分は何もできず自殺するしかないと思うようになった。他人の目を極度に恐れる一方、誰かに助けてもらいたいと思いながら、誰も助けてくれないことを心底呪った。

自分は自分を見ていなかった。自分はどうしようもない弱者であると言う事実から目を背けたかった。しかし自分はそこまで実力がないわけではない。自分が卑下しようが自分にはやり遂げたことがいくつかある。これらは自慢すべきものとは決して言いがたいが、事実である。すべて本心からやったわけではないにしろ、これらのことができたという事実は適切に評価される必要がある。そしてそれができるのは自分以外にない。

自分を適切に評価し、その中でできることを積み上げていくことが重要だ。不安に襲われたら適切に評価した自分の過去を振り返るがいい。適切というのが重要だ。事実を事実としてそのまま受け止める。加減を見誤ってはならない。