人生

やっていきましょう

111日目

奇妙な感覚が続いている。自分の心が回復しつつある一方で、あらゆる価値に対する全面的な信頼が欠落した状態にある。失望や怒りといった感情はなく、ただ欠落がある、という状態が続いている。欠落についてはいかなる表現も適切ではないと思う。なにもないとしか言いようがない。

何もない自分と、何かがあると信じて活動している周りとのギャップをうまく説明できない。自分が醒めているのか、あるいは自分だけが狂っているのか。一つ確かなことは、この感覚を他人とは共有できないということだ。言えば相手を不幸にさせてしまうことは容易に想像できる。だからここに書き記す他にない。

自分の知人の多くは、それぞれ信ずべき価値を持っている。何者かになろうと努力している者、日々の暮らしに喜びを見出そうとしている者、趣味を持つ者、繋がりを持つ者、今あるキャリアを積み上げようとする者。そういう人間ばかりなので、自分は異邦の感覚にある。

なぜそれらに価値があると思えるのか、自分には分からない。いや、かつては分かっていたが、今では分からない。すべてが斉しく誰にとっても無意味であるとしか思えない。心からそう思う。だから何かの価値観を積極的に信じている人間は奇妙に見えるし、そうでない自分を騙してどうにか価値を信じようとする人間は、ひどく不自然に見える。

ここにはまったく悪意がない。人を笑い者にしようという意図がない。そのような意図があってバカにするのは、その背後に自分の価値感を持って優越している人間だ。こういうニヒリズムを盾にとった冷笑を以前の自分ならやっていたかもしれない。しかし今はその冷笑をする動機すらない。ただ単に奇妙に見えて、不自然に見えるという事実だけがある。自分はそれを見て、不思議だなあ、変だなあ、と思って首をかしげているだけだ。

かつて色んな人に「あなたはなぜこの価値観を信じているのですか」と問いかけたことがある。ある人は「自分はこういう趣味があって、こういうことに喜びを感じて、人生が明るくなった。だからこうすることにやりがいがある」と教えてくれた。別の人は何かを実現することに憑りつかれていたが「理由は分からない」といっていた。また別の人は「そんなこと考えるだけ無駄」といっていた。そもそも考えたことすらない人もいた。

皆そこまで深刻に考えていない。ほとんどの人間は価値観があることないことにそこまでこだわっていないようだった。こだわらなくとも、自然に湧いてきた興味に対して全面的な信頼をもって取り組んでいる、といった感じだった。ここで彼らと自分とでは前提が異なるらしいということがわかった。

自分は無の上の価値という異常事態に対してひどく混乱し、それがないことには何事も成し得ぬということに戦慄し、どうにか自分が自分であると言える価値観を欲してきた。だが幾多の競争と挫折を経て、それが無し得ぬと悟ると、その反動ですべての価値を放棄し、すべてが無意味であると宣言することで心の動乱状態を収束させた。だが世間では、おそらく平穏な友人たちの間では、無の上の価値に対する闘争という考えすら、必要としなかった。価値は生まれる前からそこにあり、当たり前のようにそこにあるものだから、その価値を疑う必要すらなかった。なんとなく生きていれば価値は我々に微笑みかけてくれるのであり、疑う必要などなかった。価値があると信ずればこそ、価値を追い求め、自分の人生をかけた本気の努力ができただろう。

「なんとなく」ということがどれほど自分にとって渇望すべきものか、今まで知らなかった。「なんとなく」さえあれば、惰性の肯定感さえあれば、自分は無の上の価値を巡る10年の闘争を必要としなかった。「なんとなく」世界が肯定的に見えるのであれば、自分も明日に希望を持って生きられた。しかし、不幸なことに自分はそうすることができなかった。

自分の挫折は自己実現が実らなかったことへの挫折ではない。自己実現という枠組みそれ自体がまったくの無の上の価値観であることを認めながら、それでも敢えて自己実現を果たそうと努力して、しかし自分が究極的にはその虚構に浸れなかったことへの挫折である。自分は自己実現に対する信仰心を完全に欠いたまま、自己実現に対する努力を本気で取り組んでいた。この矛盾は自分を次第に狂気へと陥れ、ついに糸が切れて自分を破壊し尽くしたが、決してこの挫折は解決しないと思っている。なぜなら自分は初めから価値が無の上に立つと理解していたからだ。騙し騙し目を逸らして、どうにか価値を追い求めることに意味があると自分に思い込ませようとしても、意味の無いものは無いとしか言いようがない。なぜならそこには何もないからだ。無いものをあると言うことはできない。

それでもう何もする気になれない。すべてが無意味なことの繰り返しでしかない。そう考える日々だけがある。克服したいと思いつつも、克服に足る価値観を自分は持たない。自分はこのまま虚無に飲まれて生涯を終えるのだろうか