人生

やっていきましょう

115日目

気分が軽くなった。活動を再開しようと思う。今日は創作上のキャラクターの台詞を修正する。

台詞は自分が最も難しいと感じる部分のひとつだ。違和感のない表現というものがなかなか思いつかない。それで何度も修正してはこれは違うと思い悩み消して書き直す。それで一向に進まない。

台詞はその人間が何に価値を置いているかで決まってくると思う。熱血漢はやる気、成功、名誉、国王は国家の治安維持、姫は白馬の王子、魔法使いは学の探究心といった具合だ。内向的か外交的かでも決まる。破壊的か調和的かでも決まってくる。

このようにキャラクターの性格設定をいじることでキャラクターの台詞が生まれてくる。こうした調整に腐心することに喜びを覚える作家もいるが、自分には全くそういった動機がない。いや、むしろそうすることに抵抗がある。なぜなら自分は、性格の調整というものがそう簡単にいくものではないということを知っているからだ。善人にも善悪の二面性があり、悪人にも善悪の二面性がある。どちらに偏っているかという話であって、どちらが正しいと一概には言えない。こういう複雑な事情があり、自分は描くべきキャラクターの理想像というものが全く見えてこない。善人が善の偏りが強いからといって本当に悪の誘惑に悩まないことはないのか?悪人が悪の偏りが強いからといって、善に惹かれることはないのだろうか。こうした揺らぎと葛藤が誰しもあるなら、性格の偏りというのは微細なものでしかない。このように考えてしまって、自分の作るキャラクターはみんな優柔不断で悩める存在になってしまうというわけだ。

こうした描き方は見栄えがしないというのは分かっている。様々な人間の様々な価値観を並存させて、その中で自分(の支持するキャラクター)はどうするかというのを上手く描くのが作家だ。だが自分は善悪の二面性、破壊と調和の二面性、内向と外向の二面性、保守と革新の二面性、支配と被支配の二面性といったものが誰しも備わっており、物事を簡単に割り切って考えることができないと考えてしまう。自分にとって性格は、二面性のもたらす混迷以外の何ものでもない。

例えば国王が国の治安を守るために犯罪者を処刑することにした。しかし犯罪者は諸外国の法律では処刑に当たらない微罪であると主張した。この時国王は罪を撤回すべきだろうか。おそらくしないだろう。しかし諸外国で長年暮らしてきた犯罪者はこの判決に不満を覚えている。一方犯罪者の部下はリーダーが拐われたことに憤慨し、諸外国の仲間に指示を与え他国の傭兵を総動員し国境前に集結させた。ここで国王が罪を撤回し犯罪者を解放するなら引き上げても良いという取引を持ち出した。ここで国王は主張を撤回すべきだろうか。ここで要求に従えば国は戦争の危機を回避できる。しかし犯罪者の要求に屈したという前例を作ることになり、国の正当性は危ぶまれ、別の犯罪組織に同様の要求を突きつけられることになるだろう。だがここで要求を退ければ国境に集結した傭兵が国に侵入し、国は壊滅するだろう。街は荒らされ、民は死に、この国の文化は跡形もなく破壊されるだろう。

この時国王の価値観は揺るがされる。自分の価値観や判断が常に正しい訳ではないということを気づかされる。為政者の正当性は「基本的に間違うことがない」という不安定な前提の上に成り立っている。この時国王は国を守るために立ち上がるべきだ、と言ったり、国の安全を優先しよう、と手放しに言うことができるのか。ましてひとつの決断がその後の運命を大きく変えてしまう場合なら。

この選択に答えはない。だがこうした選択に迷わない人間はそういない。この時どうするか、というのが個々の性格の反映である。ある者は敗色濃厚な戦いでも悪と戦うというだろうし、ある者は民を救うために犯罪者に屈するだろう。ある者は答えのない判断に対する重圧に耐えかねコインで決めるだろうし、ある者は判断を放棄して自分だけ逃げるだろう。

優れた小説家なら、これらの個々の選択を選ぶような人間たちを配置して、その行く末を見守るだろう。だが自分は、自分ならどうするかという目線で考えてしまう。自分はどうしようもできないと結論づける。自分は終始迷い続け、結局答えがでないので誰かに決めてもらうか、決断することができないと答えるだろう。そしてその目線を、主人公に限らず、あらゆるキャラクターに当てはめてしまう。だからそういうような人間、究極の選択に対して尻込みするような人間ばかりを物語に配置してしまう。そういうわけで、自分の作品は悩んで悩んで、本心に従わない選択を妥協で選んで、なぜかたまたま上手くいき、後からあれで良かったんだと思って終わる、といったものが多い。

創作においてこれほど見栄えのしないものはない。理想のひとつでも敷いてご都合主義の話を書いた方がまだ需要がある。しかし自分には理想がない。自分の頭には価値の混迷だけがある。

この価値の混迷を描こうとすれば、物語は主軸を失い、混沌の状態に陥り、自分が何を伝えたかったか、何をしたかったかを忘れ、主人公は迷走し、仲間は発狂し、悪人は善を主張し、善人は悪を主張し、コミカルな漫才とシリアスな茶番が錯綜し、それでも物語はベルトコンベアに乗せられるが如く進行し、ラスボスというお約束が現れ、価値の混迷を掻っ攫って勇者に目的を思い出させ、最後には混迷を収束させた気分にさせ、満足していただく形でご退場いただき、価値の混迷という本質から目を逸らさせてエンディングを迎える。

これでいいのかと思っても、ほかにどうしようもない。創作という茶番に自分はもううんざりしている。混迷しかないという前提からはいかなる理想も生まれない。自分には心からの理想を描くことができない。自分にとってそれはある種の狂気、もしくはただの陶酔に見えてしまう。