人生

やっていきましょう

117日目

記録をつけることに嫌悪感を覚える。自分の醜い部分、心の脆い部分を周囲に晒すことに精神的なストレスを感じる。自分が競争社会の敗者であり、自殺願望があり、あらゆることに価値が見いだせず、自己憐憫に浸るという情けない姿を、この記録では忠実に再現する。泣き言を言わず、ただひたすら努力し、改善点を洗い出し、不動の精神を獲得するという自らの理想に反して、この記録では自分の弱さに対して決して目を背けない。

自分は同情してもらいたいのだろうか。誰かに分かってもらいたいのだろうか。慰めがほしいのだろうか。助けを求めているのだろうか。おそらくそうだろう。だが、自分は決して、実際に誰かに助けを求めてはいけないと思っている。自分はかつてネットの知り合いに何度か精神的な助けを求めたことがある。その時自分は誰かが自分を助けてくれると思っていた。だが実際は、そうすることでむしろ自分は弱者であると見なされた。自分の精神の不安定さは悪口の種にされ、あいつはメンヘラであるというレッテルを張られた。自分は相手に対して誠実に向きあっていたからこそ、自分の苦しみを打ち明けたのだが、相手は所詮ネットだからという考えにあったようだ。

このことに失望はしたが、恨みはない。なぜなら彼らがそうすることは至極真っ当なことだからだ。彼らは現状の解決策をいくつか提案してくれたが、自分はそれに対してできない理由を並べるだけだった。そこに嫌悪を見出しても何ら不思議はないと思う。おそらく自分は同情してもらいたかったのだが、自分が誰かの不幸話に同情するかといえばそうはならないだろうし、自分も同じように解決策を提示するだけだろう。

男同士の場合、相手に同情を求めるというのは歓迎されるものではない。どちらかといえば競争で優劣を決めて盛り上がるという方が歓迎されるのではないか。スマブラをやっていてそう思う。互いに殴り合っている間は、相手が攻撃し、自分が攻撃する中で、互いが受け入れられていると感じる。同情を求める姿勢ではうまくいかなかったコミュニケーションがうまく成り立っていると感じる。

戦いの前には、同情を求める仕草というのは自分が弱者であるということをアピールすることに他ならないし、結果として相手の都合の良いようにされるということを認めることになる。こうした前提でネットの知り合いと関わるようになってから、自分が今まで他人に感じていた不当な悪意、自分の被害者意識みたいなものを感じる機会が減った気がする。自分の不幸を晒し同情さえ求めようとしなければ、ある程度正常な対応が返って来る。

だから自分は、少なくとも同情という点において誰かに頼ることはしなくなった。他人が与えてくれるのは、解決のヒントだけであり、解決できなかった自分に対する憐みではない。そのことを強く認識する必要がある。自分に同情できるのは自分しかいない。そしてまた、自分の弱さを真摯に受けとめ、常に改善策を与えてくれるのも自分しかいない。他人のアイデアが有用な場合も多いが、常に与えてくれるわけではない。

代わりにこうして記録の中で自分を慰めるに至った。記録は自分の弱点と脆さを明確に暴き出すが、決してそのことを馬鹿にはしない。満足のいく同情はもたらさないが、決して自分の努力を足蹴にすることはない。確かに記録は自分の弱点を暴きすぎる。だから見たくない現実を見なければならないことへの嫌悪感に苛まれることがある。しかし、記録を放棄したところで、それは目の前の見えなくなったというだけのことであり、問題は依然として残り続ける。問題を放置して取返しのつかなくなる前に、記録は警告してくれる。

現実を見続けるのはひどく苦痛なことだが、自分に課題を与え続けてくれるというのは良いことだ。だからもう少し記録は続けてみようと思う。