人生

やっていきましょう

122日目

サウスパークで見て面白いなと思ったシーンがある。ゴスキッズと呼ばれる日陰者の集団が、外で遊んでいる同級生を横目にタバコをふかしながら「全体主義者め」と冷笑するのである。しかし全体主義を謗る彼らが、校庭の隅に集まって、団結して外の人間に冷笑的態度を決め込むという全体主義に陥っている。これは良い皮肉だなと思った。

ニヒリズムも似たような状況に陥っている。ニヒリズムを標榜する者はニヒリズムを理由にひどく冷笑的態度をとるのだが、価値や意味を謗る彼らでさえ、ニヒリズムという価値観に足をどっぷりつかっている。ニヒリストであるなら、ニヒリズムという価値でさえ必要とする理由がないのだが、どういうわけかニヒリズムという価値観は、ニヒリズムに惹かれる人間達にとって、一種の教会と救いの牧師のような役割を果たしているように思えてならない。

これを個人的な話として受け止めると、やはり自分もそういった傾向があることは否定できない。自分がニヒリズムに理解と共感を示すようになったのは、直近の挫折経験が原因であるのは明白である。自分は精神的に挫折し、一度そこであらゆる価値観に対する信頼を失った。自分はそこで、思考を放棄し気が狂うこともできただろう。いや、そうなるまいと思っていても、負荷に耐えきれず気が狂ってしまったかもしれない。だが自分がそうならなかったのは、挫折してから早い段階で、現実を直視するということを選んだからだ。そこで自分は世の中の価値の混迷と自分の現状をうまく説明づけられる理屈を模索した。そしてそれがニヒリズムだったというわけだ。

こういう経緯があるものだから、自分はニヒリズムというものを一種の心の我が家のように捉えている側面もある。人生に意味はないという言葉ほど、誠実な言葉は無いと思う。自分の心境を代弁してくれるのはこの言葉以外になく、それゆえ何よりも親しみを感じるし、愛着を持っている。

しかしこうした態度こそおかしな話である。あらゆる価値観は無意味であり後付けであるというニヒリストがそうしたニヒリズムの価値観を信じている。これは矛盾している。これこそニヒリズムが嫌悪する、自分が救済されるという願望を信じ込む自己欺瞞に他ならない。

自分はこの矛盾を克服する方法は知らない。だから自分が最低限できることは、ニヒリズムというものが、純粋に知的な推論から導き出された結論などというものではなく、自分の挫折経験、苦労の蓄積から導き出された気分的な解釈である、という側面もあるということを受け入れることである。気分がまずあり、そこに意味付けが作用し、それを自分はニヒリズムだと呼んでいるにすぎない。そういう面もある。

このことから目をそらしてはならない。目を逸らした瞬間に、ニヒリズムニヒリズムという信仰に変わり、自分はその狂信者になってしまう。そうなると自分は、これから自分が何もしない理由としてニヒリズムを掲げるに決まっているし、そうでない人間達をニヒリズムという武器を持って冷笑するようになるだろう。