人生

やっていきましょう

163日目

図書館に行った。3時間かけて全部読んだ。この調子で次の本も読んでいく。

今度は少し長い本を借りる。以前途中まで読んで投げ出したものだ。今度は最後まで読む。

最近次のようなことを考える。自分の関心というのは有限であって、どう分配するかというのが問題となる。分散させればより多くのものに触れられる。しかし深くまで手を伸ばすことはできない。限定すれば得られる範囲は僅かである。しかしより深くまで手が届く。

本を読みたいと思った時、分散されている関心をその書物一点のみに集中しなければならない。さもなければ何か別のことに気が向いて、いつまで経っても読書をすることができないだろう。とりわけゲームは麻薬的で、気がついたら優先順位は置き換えられている。そして当分それが変わることはない。

自分は気が散りやすい性格であると予め明記しておく。限られたものへの集中は、そのものに対する強い好奇心がなければ発生しない。大抵は関心が転々として、暴れまわって、そのまま疲れて寝てしまう。

この繰り返しでも一向に構わない。自分が満足しているからだ。だが自分はそれでも読書をする必要性を感じている。なぜなら自分は情報のインプット量が圧倒的に足りていないからだ。自分は転々とする関心に従って日々様々なものに手を出す。だがその転々とする関心は身の回りの対象、今の自分が知る限りの世界でしかない。箇条書きしてみよう。ゲーム、テレビ、Twitter、漫画、運動、近所への外出、衣食住、そしてごくまれに創作をする。これだけだ。自分の限られた想像力はこの範囲の関心しか生み出せない。

例えば自分は日本の電力がどのように生成され供給されているかを知らない。自分が当たり前のように見ている車の資源はどこから来るのか?世の中を数世紀前の世界から変えてしまった技術革命とはどんなものか?日本には法律がある。憲法からはじまり、民法や刑法がある。だが法律は六法あるはずではなかったか。その他の法律は何か。それらは互いにどう関わり合っているのか。何も知らない。自分は何も知らない。

今列挙した事実、今の自分が知り得ない外界の軌跡に自分は全く関心がない。だがそれこそ自分がここで訴えたい問題の核心である。なぜ関心がないかと言えば自分に直接的な関わりがないからだ。そんなものがあるということに想像が及んでいないからだ。自分に関心が生まれないのは、前提としてそれを確かに知らないからだ。知ったものが必ずしも興味の対象になるとは限らないが、知ったものが関心を湧き立たせる場合もあると思う。

したがって知るということがまず自分には求められると思う。そのために読書は最も手軽で吸収しやすい素材であるように思う。読書が決して最適であるとは言わないが(なぜならそれは言語化された情報でしかない)、今の自分にとって一番親しみやすく、負荷がかからず、リスクの少ないものはこれしかない。だから読書に賭けてみようと思う。

まずは自分が気になる本をあたり、そこから関心の枝葉を伸ばす。読んでいるうちにやりたいことが見つかったら、今より多少は面白いことになると思う。