人生

やっていきましょう

170日目

自分は今日まであれこれ考えて生きてきた。だが考えるということは、考えないよりはマシになった程度のことでしかなく、考えたとしても、何か劇的に変化したような実感はない。今の自分が足りない頭であれこれ考えることに意味があるのだろうか。

自分が考えると呼んでいる行為は、自分の今まで培ってきた偏見と手癖をただ延長しただけのものにすぎない。その結果として何か新しい着想を得たとする。だがそれは自分にとって目新しいのであって、人類の蓄積からすれば当然のことである場合が多い、と感じる。

「自分が考えるようなことは既に誰かが考えている」とはよく言ったものだ。考えれば考えるほど、そういう場面に遭遇する頻度が増えてきているような気がする。ある程度の域に入ると、どの分野であれ基礎に対する忠実な模倣を前提としている。効率というものを考えれば、自分の頭から無理やりひねり出す(車輪の再発明をする)のではなく、知識を取り入れて自分のものにすることが手早いと感じる。とにかく模倣する方が世間をうまく生きられる。

だが自分は模倣をしようとはしていない。面倒と感じたり、他人の手垢のついたものなんて、と思ってしまう。だが自分の独創性などというものはそれほど高く見積もるほどのものではないということは先日触れた。模倣に対して過度な嫌悪感を抱くのは仕方ないにしても、模倣をすることで、多くのものが得られることは間違いない。模倣をしない理由などない。

自分がなぜここまで模倣や学習にこだわるかというと、自分の頭で考えたものがあまり有効なものだとは思えないからだ。たとえば自分の現状についてはどうだろうか。様々な角度から内省して課題点を見つけることはできる。今日はこういうことがあった、こういうことを思った。これはこういうことだ。だからこうしよう。それでいつも記録は終わる。だが本当に生活を改善しようとするならば、健康の知識、栄養の知識、科学的裏付けのある最適な生活習慣、印象でない厳密な評価、学者が考えた厳密な定義、など、これらを全精力をもって参照し、採用するべきだ。少なくとも思考を泳がせる以上の効果は期待できる。

これらは知識の組み合わせだ。雑念など捨てて、有効な組み合わせだけを採用すればいい。それ以外は捨ててしまえ。なぜそれを自分はしないのか。要は面倒くさいのだ。生活を効率化したとして、それが自分にとって何の希望にもつながらないからやらないのだ。

そして自分のものでないなにものかに、自分の生活が乗っ取られることを恐れている。自分の知識が外部からの代替品で埋め尽くされ、自分が誇りを持って自分であると言えるものがどこにもなくなってしまうことを恐れているのだ。こういう原始的な抵抗感に自分は弱い。自分に自信がないのだから、これ以上自分から何も奪わないでほしいと思っているのだろう。人間はロボットじゃないとでもいいたいのか。

結局何を言おうとしたか忘れてしまった。話をうまくまとめられなかった。思考を泳がせて終わった。きっとこれも誰かが考えたことだろうし、結局誰もが徒労だと認めたものだっただろう。思考の能率化を選ばないで、無駄な思考によって自分らしさを確かめた。それで今日は終わった。