人生

やっていきましょう

172日目

自発的な訓練というものを一度も経験したことがない。あるいは結果的に訓練と呼べることをしたとしても、意識的に訓練をしていたわけではない。なんとなくうまくいった、あるいはなんとなく何かをやった「気分」になっていただけだ。それゆえ自分にとって訓練とは存在しないものであり、訓練と呼ぶ習慣を実践している人間というものを想像できない。

自分の想像力が及ぶ範囲で、訓練というものについての簡単なイメージをまとめる。一番初めに思い浮かぶのが格闘家だ。闘争心を湧き立てるような背景音楽とともに緻密な訓練を黙々とこなしている。ひたすらパンチをサンドバッグに打ち付け、ランニングをする。そして大抵、その後に本番がやってくる。

次に楽器だ。これは個人的な経験も入っている。演奏のある部分を指揮者が切り取って、パートごとに音を鳴らさせる。音が悪ければ指揮者は指摘する。そして壊れたレコードのように何度も同じ場面を演奏させる。これは訓練であると言えるかもしれないが、人から言われてやった受動的な訓練だ。だから何かうるさいことを言われた、何か自分に圧力をかけることを言われたという実感はあるけれども、それが訓練であったという実感はあまりない。

受験勉強は最も訓練に近かった。だがそれでも、どこか与えられるものであるという印象が強く、自分は敷かれたレールをがむしゃらに走っていただけにすぎない。レールは予め敷かれていたのだ。とにかく言われた通りにやるということが問題だった。だから訓練であるという実感がない。

他にも自衛隊や、野球、サッカー、歌の練習など思い当たる節がある。だがこうしたものをかき集めてなお、自分の中には訓練という確かなイメージを持てないでいる。自分が以前から指摘している通り、試行錯誤を一度も行っていないという問題がある。そこからより具体化すれば、自分は試行錯誤の結果、以前よりも更に前進したという経験がないということが言える。自分は何も考えずただがむしゃらに突き進んでいただけなのだ。これが訓練というものを自分にとって不可思議なものにしている。

最近訓練というものを強く意識したことがある。TOEICの勉強だ。ここでは何が有益で、何が無駄であるかを逐一観察した。だが結果として、リーディング及びリスニングの効果的な勉強法を特定することができず、最後の最後で目標点を25点下回った。自分はここに問題があると思う。つまり、リーディング及びリスニングの実践的な訓練をどのようにすればよかったか。これを特定し実践することが訓練の正体を掴む鍵であったように思う。だが結局最後はがむしゃらにやって終わった。がむしゃらにやるのは悪いとは言わないが、思考を放棄して特攻することに等しい。それが有益である場合があるにしても、大抵自分の行き詰った壁にぶち当たり、自分を破壊して終わる。後には何も残らない。

訓練とはいったい何か。以前よりも目的に適った状態に近づくよう努力することだ。がむしゃらにやるのは「努力」の部分であって「以前よりも目的に適った状態に近づく」の部分ではない。後者に必要なものは目的をより厳密に定義すること、あるいは努力の方向性や量を厳密に評価することだ。これは体力というよりは頭を使う分野だ。目的を定義するというのは並大抵の人にできることではない。自分も実際ほとんどできていない。言葉遊びの上での定義づけではなく、努力と運用を視野にいれた定義づけだ。自分は常に言葉遊びに終始しがちで、実践に落とし込めていない。

とにかく自分に足りないのは目的を達成するためにどこまでも厳密になろうとする態度だ。その執念が、あるレベルに達すると急速に縮小していくのがわかる。本能的にそれが面倒だと思ってしまうのだ。面倒だと思った大抵のことは成し遂げられていない。それで自分の機会を何度も失っている。だから自分は、今後何かを成し遂げるためには積極的に問題が何であるかということを意識したい。