人生

やっていきましょう

178日目

自分が何を問題にしているか明確に分からないまま、その疑問を他人にぶつけることがある。自分が何を問題にしているのか分からないのだから、相手にも分かるはずがない。それで微妙な空気になって終わる。そういうことがある。

これは100%自分に非がある。対話において曖昧さを議題に挙げるのは相手に対する不遜だ。話が抽象的な場合、自分はどうにかして自分の曖昧な問いに答えを出そうとする。そのため相手が意見を表明したら「いや、それは...」とつい言いたくなる。抽象的な話に対する答えは、自分という文脈に照らし合わせない限りおよそ納得に至ることはない。だから他人の意見を二の次にし、更にその上、自分の納得する文脈を構築するために、相手の意見を破壊するような事態が起こる。

これは自分に悪意がないにしても、相手からすれば不快なものであったように思う。相手は相手自身の関心を持って自分と話を共有する目的でその場にいるのであって、必ずしも自分の問題意識を共有しているわけではない。また関心の外の話題であっても、具体的な話題なら共有可能なものであるものを、抽象的な話題を投げかけているのだから、かなり横柄であるように思う。「あなたは神を信じますか?」といきなり問いかけるようなものだ。このことに関心があるのは何らか信徒か、なにか神を求めている者か、暇人だけだろう。

そういうわけで対話の場ではある程度話題を選ぶ必要がある。大抵は当たり障りのない話題か、相手とすでに共有が確約されている話題に尽きるが、仮にそれがディープな話題であっても、興味を湧かせるような話題であれば話してもいいだろう。だが極めて抽象的な問題で、個人的な疑問である場合、それはあまり表に出すべきではない。その問いの答えとなるもの、特に自分の文脈に適合する解釈を、相手は必ずしも言ってくれるわけではない。言うこともできようが、それは相手に自分の接待を強いることであり、極めて不遜である。このことを注意して意識する必要がある。