人生

やっていきましょう

182日目

先日読んだ本でいくつか気がかりになっていた点があった。読んでからすぐに忘れてしまったが、ふと思い出したので記録する。ひとつはきつめの目標を設定するということ。もうひとつは勉強の持続はドーパミンによる正のサイクルをまわすということだ。

きつめの目標を自分で設定し、それを乗り越えることで自分は満足する。その満足を得ればもっと満足を求めるようになる、ということらしい。これにより習慣が自然に持続され、考え方が発展的になり、どんどん挑戦できるようになる。

この点について自分の生活と照らし合わせた。自分は4月からきつめの目標を設定してこなかった。自分のメンタルの応急処置を第一優先にしてきたため、目標もどこか緩めだった。今ある程度傷は修復されリハビリをこなしているが、未だ目標は低い。

だから何かきつめの目標を立ててみようと思う。とはいえ、実現不可能なレベルで困難な目標である必要はない。たとえば資格勉強であるとか、期限までに創作を完成させるとか、そういうことで良いと思う。バイトで一定の金額を貯めるという目標でもいい。とにかく少し無理をすればできるというレベルの目標を立てたい。

 

とはいえ、現時点で何をするという覚悟ができない。以前もこの件について問題視してきて、今でもそれが変わらない。決断という話だった。もっとスパッと決断できないだろうか。未だに不安が残っている。以前から決めると言いながら、何も決められていない。

実はもう自分には何かを恐れる理由などほとんどない。先日のバイトで自分が他人に恐れていた不安というのはかなり薄れてきた。自分は働くのが面倒くさいというよりは、働くのが恐ろしいと感じる人間だ。だから恐れと不安さえなければ今すぐにでも働ける人間であることは間違いない。

では何が不安なのか。今の自分は、自分が今まで他人の為に時間を捧げ続けてきたことに対する怒りと反動の感情と、そうでありながら自分が何を望んでいるのか分からないという混乱の状態にある。こういう時、本当は妥協してどこかに務めるべきなのだが、今まで散々自分を犠牲にしてきて、これからも犠牲にするのかという絶望が、堅実な道を閉ざしてしまう。

とてもわがままなことを言っている。自分は今まで子供になれなかった。誰から言われた訳でもなく、自分で忖度して自分を歪めてまで環境に奉仕してきた。だがそれは積極的というよりは、どこか消極的なものだったのだろう。どこまでも「仕方なく」という思いがあった。ただそこに鎮座し教師の言いなりになることが自分にとっての最善だった。

今改めて自分の内面を見ると、自分の中の子供が死んでいることに気づいた。死にかけているのか、死んでいるのかわからないが、意欲がもうほとんどない。自分は余生に入り、ただ死を待っている。希望がない。緩やかにすべてが終わるのを待っている。

先日読んだふたつのこと、きつめの目標とドーパミンの話は、自分にとっては何の救いにもならない。確かにそうらしいというのは分かる。そしてそれをすぐにでも日常に生かそうと積極的に考えている。だがそれが何になるのか。自分の意欲は、自分が殺してきたことでもうどこにもないのだ。危機感だけが永遠と続いているが、どこに意欲の源泉があるのか。どこにもない。すべてが枯渇している。