人生

やっていきましょう

198日目

理性の選択によって意欲は生まれるのか。理性の限界は意欲の生まれやすい環境を配備することであり、意欲自体はそもそも偶発的なものではないだろうか。

これまで雑な試みをしてきて、自分の意欲が生まれたことはほとんどなかった。意欲と呼ぶにはあまりに微弱な衝動が、自分をスマブラに駆り立てたり創作に向かわせていたことはあった。だが根源的な意欲というものはほとんど湧いてこない。これまでの試行錯誤に効果があったようには見えなかった。

意欲というものは、少し高めで困難な目標を「自分で」設定して、その壁を乗り越えたときに生まれる達成感から、強く沸いてくるものだという記述を読んだことがある。自分が意欲を持つには何らかの達成感がいるように思う。その達成感は常に得られるものではない。難しくなればなるほど得られ難いものになる。だから失敗を前提にとにかく行動し続けろというのは理にかなっている。

問題はその失敗を自分に受け入れられる打たれ強さだ。自分は今そこに自信がないため、何もできないでいる。啓発本などでは概して失敗は成功の母とか、私は一度も失敗したことがないなぜならそれは試行のひとつにすぎないからだとか、もっともらしいことを言うが、こうした思い込みを信じることは容易ではない。これは適性というものだ。こうした感性を信じることができる人間はできる。猜疑心に脳が支配されているような人間にはできない。自分は後者だ。

失敗に対して臆病になっている。おそらく失敗したら怒られるとか、嗤われるといった妄想を長らく抱き続けてきた後遺症だろう。それは思考の習慣となり、連想しやすさに繋がっている。どうすれば行動に繋げられるだろうか。まず第一に長年抱き続けてきた思考の習慣から距離をとる。思考の習慣は思考の習慣でしかない。そういう連想しやすさが自分に備わっているというだけだ。次にその思考の習慣を修正する。自分はできる、などと無邪気な思い込みはもうできないが、できるできないにはいくつか序列がある、ということを認めようと思う。歩く、コンビニに行く、運動する、短期習慣を実践するといった"今すぐできること"、Toeic、創作、勉強、読書といった"少し頑張ればできそうなこと"、社会復帰、賞をもらう、海外に行くといった"相当な努力が必要なこと"。これらの序列のなかで、前進するか、留まるか、撤退するか、を選ぶことになる、という認識を持ちたい。自分の領域をできることだらけにしておく。そうすることで自分の幼稚な万能感が次第に回復してきて、次はもっと難しいことをやろうという気にさせてくれるだろう。これも思い込みだろうか。