人生

やっていきましょう

199日目

自分がいつも考えていることは、大抵の場合自分が納得するものでしかない。それは自分を納得させるものでしかなく、それ以上のことは意味しない。たとえば自分の考えが何か社会的な問題と関連づけられているということはない。あるいは専門的な知識に基づいて判断を下しているわけでもない。自分の思考は、自分の身の回りの生活と、少しばかりの抽象概念に基づいて語られているにすぎない。

先日奇妙なことが起きた。オンラインゲームのチャットの流れで社会問題について話題になったとき、自分はある情報について語ろうとしていた。確かベーシックインカムの話題だったと記憶している。自分は前提となる知識を少しばかり話そうとした。だがその時自分はベーシックインカムについて何も言い出せなかった。何か無料で必要最低限の金がもらえて働かなくても良くなる、といった雑な印象だった。

ベーシックインカムだから、というわけではない。自分は社会で起きている現象についてほとんど何も知らないのだ。今回はそのことに気づかされた。自分は新聞を読んでいない。ネットの雑なニュースサイトと、Twitterで時事の把握を済ませている。社会で何が起きているか詳しいことは何も知らない。

これは仕方がない。自分の関心の中心が自分の内面であり、どうすれば内面が自分の望む状態のままでいられるのか、ということ以外考えてこなかった。自分の思考は、自分が思っているほど以上に広くない。ほんとうに狭い領域の中での問題でしかない。自分は考え事をしているとき、より多くのことについて言及している、あるいはできているつもりになっているが、実際は違う。原始的で、粗雑で、きわめて個人的なものだ。

外部に対する関心、というものについて今一度考えてみた。自分が記事を書いている時、自分の中にあるものを取り出しているという感覚にある。だが自分にはなくて、外にある知識や考え方というものもまた存在する。このとき自分はそれを取りにいくだろうか。結論からいえばそれはほとんどありえないだろう。社会問題について何も知らないからといって、自分は進んで新聞記事を購読するという関心が沸いてこない。正直に言えば危機感すらない。ある有名なプログラミング言語の参考書を誰かが無料でくれると言っても自分の心はあまりなびかない。本を読んでいても、新しい分野の開拓に尽力する気にもなれない。自分の好奇心は死にかけている。

今の自分になく、外にある情報を得ようとする努力は難しい。誰もそのやり方を教えてくれない。だが教わるものでもないだろう。好奇心から勉強していたら勝手に自分のものになっていた、というものではないのか。今の時点で必要を感じられないのなら手を付けないで置いてもいいという気がしてきた。だがその選択の背後にはうっすらと危機感が漂っている。