人生

やっていきましょう

201日目

ゲームとは前提として時間を忘却させてくれるものである。だが良いゲームとは、ゲームで得た体験が現実のものとして生かされるものである。あるクリエイターの言葉だったと思うが、概ね同意できる。いわゆる「考えさせられる」という状態に人を導く作品はそれなりに評価が高い。自分もそういうゲームが好きだ。

だが大抵の場合、そうした考えさせられるゲームはストーリーに触発されている場合が多い。人間の葛藤や善悪の二面性、答えの無い問いの提示、タイムリーな題材、こうした要素を取り入れて問題提起をする。当然そうした作品はあって良い。だがそれらは今ここで触れるものではない。

考えさせられるゲームがゲームであるとき、必ずしもそれは物語である必要はない。ゲームという体験が持つ本質、そのことを暴き出すだけで十分である。そしてその本質が、ゲームを超えて現実と繋がるとき、その体験は換え難いものになる。

agar.ioというゲームはまさにそういうゲームだった。自分はこのゲームにある種の完成されたひとつの像を見た。完結明瞭で、無駄がなく、言葉を挟む余地がない。それでいてこの体験がゲームに留まらないことを自覚させる。

ルールは簡単だ。ただ大きくなること。自分より小さな餌を吸収することで、その分自分が大きくなる。はじめは小さな点だったプレイヤーが、いつしか巨大な円になる。

だが自分ひとりが大きくなるわけではない。同じ目的をもったプレイヤーが1つの世界で複数共存している。だが決して独立しているわけではない。彼らもまた誰かの餌として飲み込まれる状況にある。巨大なプレイヤーは小さなプレイヤーを飲み込むことができる。飲み込んだ分だけプレイヤーは大きくなる。小さなプレイヤーは逃げなければ吸収される。

このゲームの優れた点は競争の本質を体験という形で我々に提示していることだ。同じ目的を持った者同士が争うということはどういうことか。このゲームに参加すれば一目瞭然になる。自分が小さい時に相手のプレイヤーから感じる「恐怖」とはどういうものか。自分が大きくなった時に小さなプレイヤーに感じる「優越」とはどういうものか。その結果自分はどういう行動を選択するのか。

どのプレイヤーも3つの操作を行うことになっている。移動、分裂、そして提供だ。移動はマウスで行う。大きいプレイヤーは攻撃と拡大のために、小さいプレイヤーは逃避のために用いる。

分裂はスペースキーで行う。キーを押すとひとつの円が2つに分裂する。分裂可能な大きさであれば更に4分割、8分割することができる。大きいプレイヤーはより多くの養分の効率的な吸収を目的として分裂することがある。対人戦の駆け引きとしても用いられることがある。小さいプレイヤーは大きいプレイヤーから逃げるために用いることがある。いわばトカゲのしっぽ切りで、余分なものを切り捨てて自分の命を優先させる。このゲームは大きくなればなるほど身動きが取れなくなるため、敢えて小さくなることで大きなプレイヤーから逃れることができる。

提供はWキーで行う。自分の身体の一部を分解して養分の球にする。提供した分自分は小さくなる。これには二つの利用方法がある。ひとつは純粋にプレイヤーに養分を提供すること、もうひとつはウィルス(棘)に養分を提供することだ。前者は養分をプレゼントするという意味がある。チームを組んでいる人間が、仲間に養分を提供したいときなどに用いる。後者は棘に養分を与えて、反対方向に棘を分裂発射させることにある。これは相手の円を分裂させることを目的として行われる。ある程度の大きさまでは、棘に触れると分裂する。

個人的に興味深いのは前者だ。プレゼントを行うとき、必ずしもチーム間で行われるわけではない。野良戦で大きいプレイヤーと小さいプレイヤーが対峙したとき、大きいプレイヤーが餌を提供してくれることがある。これは善意の提供であることも多いが、相手をおびき寄せる罠であることも考えられる。小さいプレイヤーは信じるか信じないかという二者択一を迫られる。仮に信じて救われた場合、小さいプレイヤーと大きいプレイヤーの間ではなんとなく信頼関係が生まれるようだ。野良戦で、そういうことが何度もあった。だが目的を同じくする以上、いずれは利害を巡って対立することになるかもしれない。これは政治である。

このゲームはまだ始めたばかりだ。だから自分が述べられることには限りがある。実際は行動の組み合わせによってより高度な戦略が考案されている。それを応用して上級者は勝負に勝とうとしている。自分はそのすべてを把握しているわけではない。だが自分が今回このゲームを通じて体験したことは、初歩的な認識であれ、明らかに純粋な競争を形にしたものであった。そのことを強く認識した。

この競争はゲームに限らない。現実社会そのものが競争のフィールドであるといえる。だからこそ自分は何かここから学び得ないかと思う。たとえば小さいプレイヤーが大きいプレイヤーに感じる「恐怖」は、明らかに自分が社会に出ることを阻む感情的不安と一致している。自分が恐怖を克服する術として、ひとまず逃げ、力を蓄え、再び激戦区に戻るというのは基本的なやり方であるというのが分かる。また自分の今までの価値観が2018年に崩壊した、というのも、自分の養分が自分から離れ、最小単位に戻ったということにすぎないのではないか。社会に自分の価値感を否定されたとしても、自分の命がある限り、また養分を蓄えられる。こうした見方を可能にする。

無論こうした例え話には注意がいる。例えが適切でない場合もあるし、例えから導き出そうとする答えが適切でない場合もある。それに社会はこのゲームのように単純な理屈で動いてはいない。だが複雑であるからといって、このゲームが語るある種の結果がまったく的外れであるとは言い難い。確かにゲームには違いないが、もしこうだったらどう振舞うべきか、ということを体験として確認させてくれるというのは、自分の頭であれこれ考えるよりも有効であるように思われる。

決して礼賛しているわけではないが、自分のいきすぎた被害妄想や、希死念慮を抑制し、事実はもう少し単調で平凡であるということを自覚させることにこのゲームは役立つと思う。それだけ自分には示唆的だった。