人生

やっていきましょう

202日目

他人と自分の主張がぶつかった時、自分が何かを主張してそれに相手が反論した時、自分は間違っていて相手が正しいのではないかと考える傾向がある。

同様に、相手が自分の主張を理解しない時、自分が何を言っているか理解できないと言われた時、自分の理解は間違っていて、相手の理解が適正であるのではないかと考える傾向にある。

こうした問題はどれも主張の正誤を他人に委ねている自分の弱さを明らかにしている。かつて自分はそれでも良いと考えていた。人間関係が維持されるのであれば。だが最近自分はこのやり方を放棄しようとしている。この態度からは自分の正しさは生まれない。

安易に自分が間違っていて、他人が正しいと考えるのは危険だ。相手は自分に対して様々な色眼鏡をかけている。知能が劣っていると考えるかもしれないし、反抗しないから自分の主張を押し付けても良いと考えるかもしれない。あるいは逆に、相手が正しく自分は間違っているという自分と同じような目線を、相手が抱いているかもしれない。

色眼鏡というのは自分にも当てはまる。自分が間違っている可能性というのも当然少なく見積もるべきではない。だが自分はあまりにそれを強く捉えすぎているのだ。自分と他人の理解の当たり判定が決して同じ程度であるとは言わないが、他人が万能であるということも決してない。物の見方に対して自信に満ち溢れていても、実際は限られた情報から決めつけているだけかもしれない。

自分の主張に自信を持つことが重要であると思う。だが自信という、一筋縄では形容し難い表現で問題を眺めることはあまり適切でないようにも思う。むしろ、相手の主張を無条件に肯定する癖を矯正すると言った方がいいだろう。そのために自分の理をひとまずは立てる。そしてそれを相手にぶつける。怯んではならない。誠実であるためには自分に対しても誠実でなければならない。

自己主張をしない自分のスタイルは、自分の信頼に置ける人間との間には最適であろうと思う。相手もまた強く主張しないからだ。ハトとハトによる平和が維持される。

だが誰もがハトというわけではない。自分の弱み、自分の在り方を見て強気に出るようなタカも沢山いる(このことはあまり否定していない。自分もそういう傾向が部分的にはある)。そういう時は自分が間違っていると思い込んですぐに逃げるのではなく臨戦態勢を取る。つまり主張を武器に戦う。

戦う姿勢を見せた途端に相手が退くという例が至るところで散見される。これにより相手は下手に自分を攻めなくなる。これもまた平和だ。虚仮威しはすぐに見抜かれる。本当に戦うつもりでなければならない。もちろんこれが諸刃の剣であることも分かっているし、好戦的な人間を惹きつけることになるという傾向も念頭においてある。実力差がある場合も無視できない。

不特定多数の相手に悪く思われたくないと考える傾向がある。だがこれを実現するためには聖人の道を歩む以外に方法は無く、自分により過酷な試練を課すことになる。自分は修正案を提示する。相手に悪く思われたくないという思いは、自分に対してリスペクトを抱いている人間に限定する。これは自分を高く評価しているか、ということではなく、少なくとも自分を対等な目線で捉えているか、ということである。

そうではない人間は当然いて良い。そういう人間が自分の知人には沢山いるが、それであってもまったく構わない。だが彼らに対しては自分を守るために精神的な距離を取る。これは敵意ではない。中立的態度である。中立的態度の中での信頼関係というものがあっても良い。実際にそれは成立すると考えている。全体のリスペクトではないが、部分のリスペクトは抱き得る。そういう点には自分は率直に尊敬と好意を感じる。

敵対的態度はほとんど有り得ない。自分が失望させられた経験は何度もあるが、相手に対する期待が絶縁に至るのを阻んでいる。自分がお人好しなのかもしれない。そもそも自分に対して敵対的態度を取り、自分も相手に敵対的態度を取るような人間は近くに寄せつけていない。事前に弾く。だからここでは議論しない。

誰からも悪く見られたくないというのは非現実的な態度だ。しかしだからといって、何も好戦的になれと言いたいのではない。自分を守るために戦えということだ。相手が主張をぶつけてきたら自分も主張をぶつける。そこには一定の理がなければならない。無いのであれば大抵は自分に非がありそうだ。その時は素直に謝罪する。だが理があると判断すればぶつける。それでも話が平行線ならどうするか。まず自分に対して最低限のリスペクトがあるかどうかを見る。あるようならそれは良い議論であり、相手の様子を見ながら平和的な話し合いを心がける。リスペクトがないようなら話は終える。別の話題にするか、別のことをするか、その人から離れる。

肝心なのは相手がどんな人間であるかを見定める洞察力を鍛えることだ。それは不断の努力によって達成し得る。だかそれは同時に変化しやすいものである。相手が敵対的かと思っていたら、何かのきっかけで友好的になる場合もある。反対に友好的で信頼に置けた人間が、何かの弾み(これは察するに余りあるが)で、敵対的になる場合もある。自分はどちらも経験している。以前はこうだったのに...と思いたくなる自分もいる。だが過去は過去だ。決して無かったことにはできないが、常に現在に勝る指標であるという訳でもない。いまはどうなっているのかということを考えたい。変わりやすい状況を冷静に受け止め柔軟に対処できればと思う。