人生

やっていきましょう

239日目

習慣4日目。昼食を抜いた。起床が遅かった。

精神がまた不安定になった。それで運動したらまた治った。昨日と同じ繰り返しなので、不安を幾分冷静に受け止められた。

ただ運動するまでに1.2時間かかった。それまで部屋の中で頭を抱えるだけだった。この時間は無駄だ。心が不安定になったらすぐに運動すべきだった。実際、その過程では解決の方法があるということを忘れている。ただ不安しか見えていない。

不安を何度か経験して思ったことだが、不安に直面するとそれが現実的な問題から来るのか、未来予測の仮定から来るのか識別できなくなる。「不安を感じた」ということはまさしく事実だが、不安のトリガーとなる対象は現実的な問題でもあり得るし、もしこうだったらという仮定のものでもあり得る。

より詳細に言えばトリガーとなるものはまず第一には現実的なものだろう。次にその引き金から未来に対する漠然とした不安を感じる。そこで無数のネガティブな仮定を想起する。その仮定が更なるネガティブな仮定を想起する。

ここで自分は「不安を感じている」という事実ばかりを見てしまう。その事実が自分にとって非常に深刻なものであると騒ぎ立てたいのだ。それが自分の身に起きていることには間違いない。だがその後が問題だ。この時自分は「かもしれない」の方に原因を求めてしまいそうになる。

たとえば自分がよく抱く不安に孤独感というものがある。孤独な理由はいくつかある。コミュニケーション能力の問題であったり、人付き合いが分からないであったり、過去の失敗経験の積み重ねであったりする。知り合いが身近にいないということも考えられるだろう。これらはすべて現実的な認識であり、それ自体には問題ない。

問題は孤独な理由について「もしかしたら自分は周りの人間から嫌われているのではないか」という仮定、あるいは一歩進んで「行き交う人間全員が自分に対して軽蔑の目を向けているからではないか」と考えることだ。

不安感情は仮定とリンクする。不安感情とリンクした仮定は不安感情とともに記憶に残る。だから自分が不安感情を抱いた原因は何かと考えたとき、この仮定を連想しやすくなる。それで自分が「自分が人付き合いができないのは他人から嫌われているからだ。だが自分は何も悪いことはしていない。よって自分を嫌うのは不当な行為だ。許せない」などと考えてしまったら救いようがない。単なる被害妄想だ。

本人からすればそれは事実なのだろう。自分が不安を感じているというのはまさしくリアルなものだからだ。問題は不安を抱く主体がそれを正確に表現できていないということだ。そして不安の言及に対するものの大半が不安の連想に原因を求めている。

連想は必ずしも因果関係を示さない。自分がこの1年で強く言い聞かせてきたことだ。連想は相関関係を示唆するかもしれないが、それが因果であるとは言いきれない。だから自分が不安に駆られて「なぜ」と問いたくなったら現実的な予測に基づくべきだ。「かもしれない」に支配されてはならない。

自分が注意すべきこととして、まずは不安になっている自分を現実のものとして受け入れる。次に不安を和らげようとして「なぜ」を求める段階になったら、大抵の仮定は二束三文の価値しかないことを自覚する。それらは強迫観念に駆られて不安要素を連想しているだけであって、要するに自分を納得させたいがための苦し紛れの言い訳にすぎない。

唯一自覚して良いのは現実的な問題だ。先に述べた通り、実際にこうなっているというものは根拠として認めてよい(それでも自分の誤解や偏見、被害妄想が混じっていないかどうか懐疑的になる必要はあると思う)。

そうしたとき目の前の不安が多少現実的で具体的なものとなっていると思うので、それが解決できる問題であるかどうかを判断する。たとえば孤独感を覚えるという問題が、ゲームの知りあいに合えば解決できそうであればそうする。実際の社交場で理解者を求めるというのが解決になるとしても現時点での自分には荷が重いというのならそれはしない。できる範囲での努力を善処する。すると多少はましになる。

今自分は強力な武器を持っている。運動をすれば不安は飛ぶ。このことについて自分は核とした医学的な根拠を持たない。テレビやネットの受け売りか個人的な経験から導き出した答えだ。おそらくは正しいだろうと思う。不安の直接的な原因を解決しなくても、不安を感じやすくなっている自分を調整することで、不安に対する捉え方が変わってくる。根本的な解決になっていないのは理解しているが、緩和できるのであれば利用しない手はない。不安になったら運動するというのはもはや自分の中では定石といっていいほどのものになっている。まずは手堅く運動をしよう。それでも解決しなければその時考えようということだ。

不安を感じたら運動。そこに雑念を挟む余地はない。