人生

やっていきましょう

241日目

今日は外出した。用事で東京に行って皇居周辺を走った。距離は16kmくらいで結構ハードだった。距離というよりは最初の方で飛ばし過ぎて後半に体力が切れた。水分補給を適切に行わなかったので無駄に体力を消耗した。

特筆すべきところはない。ただ走っただけだ。懸念がひとつあるとすれば今日の運動をどうするかということだ。腕立てくらいはできそうだが他のことをやるのはつらい。何かをする体力が残っていない。適当にやれることを済ましてはやく風呂に入って寝ようと思う。

これだけでは記事として物足りないので、自分の考えを少し漏らす。最近創作、とくに小説について気付いたことがある。今までもうっすらと認識をしてはいたが、自分は登場人物を描くということがうまくない。登場人物を描く動機もない。意識的に彼ら固有のキャラクターを設定し、描写したこともない。

自分が今まで何を書いていたかというと、自分の思索を小説という形で表現していた。人間の描写ではなくて、漠然とした世界観の描写していたようだ。ここで自分は登場人物と呼ぶべき存在の不在に気が付く。主要なキャラクターに個性はなく、登場人物はすべて背景となっていて、背景のまま、ただ提示されている。

その小説を見る人は何を思うんだろうということを考える。少年雑誌のように、登場人物に憧れを抱いたり、感情移入するような工夫を自分はしていない。自分の創る登場人物はどれも目的を喪失しているし、何をしたらいいか分かっていないようだ。

とてもつまらない小説だと思う。読者を想定していない。だが想定すればいいのか?自分の描く作品で読者を満足させれば気が済むのか。自分は読者を満足させる言葉やキャラクターを作る動機はない。だが自分のメッセージを訴えかける動機もない(自明性の喪失という実存的危機を他人に訴えて何になる?)。すでに自分からは小説を書くという動機が完全に消えてしまっている。それでしばらく書いていない。

とはいえ、むしろ登場人物の設定を丁寧に仕上げたらどうなるだろうという疑問もある。今まで自分の中で登場人物は不可分の関係、互いが互いに個別の存在として機能していなかった。そのキャラクターが何に最も価値を置き、どういうふるまいをするのか。そこで何と対立し、何に共感するのか。そういう茶番を考えることに面白半分で踏み入れたいという気持ちもある。

かつて一度こうした試みをやったことがあるが「気恥ずかしさ」が勝ってしまい、キャラクターのつくりが控えめだった。そういう恥じらいを今度はあえてぶっ壊してキャラクターを洗練化させるのはどうだろうか。今度暇があったらやってみたい。