人生

やっていきましょう

246日目

先日風呂に入って寝ようとしていたとき、突然精神的な不安に襲われた。その不安は翌日も続き、再び夜になって運動する最中も同様、風呂に入り今に至るまで消えることはなかった。日頃の不安については、ああまたかと思えるくらいは冷静に受け止められるようになったが、その日に限っては抑え込むことができないほど大きな不安だった。

不安というよりは、怒りに近い無念であって、自分が今置かれている状況が、これまでの価値観の文脈に照らし合わせてみれば、まったくの異常なのだという事実の重みに耐えきれなくなった。自分が何をどう弁解しようにも自分は社会的責任を放棄しているのであり、自分を守るために必死に訴える言葉は、義をもって通せるものではない。社会から常に「お前は間違っている。生きる価値がない」と訴えられているような気がする。

自分は何よりもまず自分がいまここに存在することが正しいという安定のもとに立たなければならないが、そうなろうと努力すればするほど、自分が社会に対して裏切っているという現実が明確に立ち現れ、逆に不安定になる。自分はエゴイズムによって自分を回復しなければならないが、そうしようとすればするほど、社会に適応できなくなる不安、罰を受けるという恐怖が鮮明に浮かんでくる。

社会は自分の存在を決して肯定しないが、義務と成果だけは求めてくるというイメージが小さい頃からある。拒めば罰がある。罰によって訓練されることで従順に義務をこなすようになる。自分は自分の人生を一度として生きたという記憶がない。常に外部からの要請に応え、成果を出力する。原動力は外部に対する恐怖。

実際に自分の受けた罰などほとんど無いに等しい。人並のものだったかもしれない。だが自分の中では外部に分かってもらえなかったという経験があまりにも大きすぎる。外部は自分に対して全くの関心がない。むしろ都合の良い人間であるように求める。しかし外部は自分が外部に対して関心を持つことを求める。

自分の中で外部と社会は同義になっている。自分が一人の人間であるように扱ってもらえなかった記憶が、社会に対して抱く無根拠な恐怖の源泉になっている。自分が社会の要望に反して自分を貫ける人間であれば生きやすかった。あるいは自分が社会の要望に心から尊敬の念を抱き、自ら従順である道を選べる人間であればよかった。自分はどちらでもない。自分は自分勝手な人間でありたいと欲していながら、従順でなければならないという規範を克服できない。自分は社会に貢献して自分が正当な存在である自認を得たいと欲しながら、自分の意見や考えにどこまでも率直になりたい、間違っているかもしれないなどと不安に怯えたくないと思っている。

まったく反対方向の願望をそれぞれ抱いて、どちらを選ぶこともできない。どちらを選んでも自分に対する裏切り行為になるのだ。どうしようもなかった。自分は一度それをすべてリセットした。そしてこう考えた。まず自分に率直になり自分がやりたいようにやる。ある程度満たされたら今度はその余剰をもって社会貢献に費やす。こういう段階を踏まえることが理想だ。自分の問題は、自分の感情やモノの見方に率直になることを禁じて、どうにか従順になる道を選んだことだった。それが歪みの原因だった。だからそれを直そうとした。

そういう前提で今まで自分自身を肯定できる自分を作ろうとした。だが完全にはリセットできていなかったようだ。どうにか自分を歪めて社会に適応しようとした、かつての過去のトラウマが突然フラッシュバックする。それで何年も人と話せなかったことも思い出した。すべてなかったことにすることはできない。

自分に今できることは、自分を自分に一致させる努力をすることだけだ。自分のものの見方を信頼することができれば、自分のこころはもう少し安定するだろうと思う。