人生

やっていきましょう

249日目

朝から精神が不安定になり活動を中止した。そのまま夕方の17時まで寝込んだ。運動と風呂だけはこなした。少しだけ気分が軽くなった。

最近メンタルにくる出来事が続き、精神が安定しなかった。それでTwitterでネガティブなことを書き続けていた。悪いことだと思っている。

Twitterについては以前触れた。オンラインゲームで知り合った人間を立て続けにフォロー&フォロワーの関係に置いた。メンタルが健全なうちはよかったが、壊れていくにつれ苦しくなった。自分が前向きな情報を目にするのもつらかったが、自分が発している虚無的な言葉を、前向きに生きようと頑張っている人の目に映すのはもっとつらかった。

何人からかは愛想をつかされたと思う。FFの関係を切られたこともある。その度に自分の行いを責めている。自分の人生を、意味を、価値を肯定できれば・・・。

自分は今、自分の価値観を形成できないでいる。すべてに意味がないという絶望状態にある。だが完全にそうなっているわけではない。意味や価値に対して、僅かに期待がある。その僅かな期待を頼りに、自分の人生をどうにか肯定しようとしている。

それゆえ葛藤している。虚無が自分を覆い、もはや価値の勝利はあり得ないというところまで追い詰められていながら、それでもどこかで価値を信じたいと思っている。自分が良いと思ったもの、自分が作り出したもの、自分がやろうと思ったこと、どれもみな価値があると思いたい。その価値を他人に分かってもらえなくても、自分が良いと思えていたい。

そういう動機を、ごく僅かに与えてくれていたのが前向きな人たちだ。勉強を頑張っている人からは勉強のやる気を貰う。創作を頑張っている人からは創作のやる気を貰う。まったく関わることはないが、自分でも気づかないうちに生きることの励ましを与えてもらっている。

そういう彼らを自分は、自分の心を覆っている虚無思想で破壊している。決して直接言うことはないが、自己言及という形、自分に対する皮肉という形、絶望の吐露という形で彼らの目に映る。気分が良いはずがない。

こうした目線を最近取り戻しつつある。自分は自分の苦しみばかりを見ていて、他人の事情は見えていないのではないか。自分は世界一の不幸を背負っていて、他の人は皆苦労も絶望もすることなく毎日を生きていると思い込んではいないか。ひょっとしたら、自分が前向きだと思っている人間も、自分と同じように絶望を乗り越えて頑張ろうとしているのかもしれない。

虚無思想については確かにその妥当性を認めている。どこまでいっても価値を保証するものはない。価値の存在は自分がその意味を積極的に信奉するか、他人の価値に共鳴しなければたちまち消えてしまう。ただ実際、その存在があるものと仮定して社会や生活が回っているのだとしたら、むやみに否定的な言葉を発するのは害悪だと思う。

以前にも言ったが、たとえば劇を見て劇は所詮作り物であって、その作り物から生まれた感動も所詮は偽物から生まれた認知の錯誤、各人の感情の混乱状態にすぎないと言うことは一定の妥当性がある。ただ実際、その作り物の中に価値を見出すということが、その人が人生を生きる深い動機になる場合がある。

そのとき自分はどんなに目の前の劇が茶番に思えても、その茶番が茶番と分かっていながら欲している自分を皮肉ろうとして言葉を漏らしても、あるいは、その茶番を茶番としか思えない自分の苦悩を誰かに分かってほしくて叫んだとしても、結局その言葉を発してしまったら、劇を見ている人は不快に感じるだろう。

虚無思想は、目の前の価値が何ものも意味しないという事実に基づいて、映画館の中で感動的なシーンをぶち壊す罵倒を何度となく繰り返すことを拒む理由を奪う。しかし多くの人が主張している通り、虚無思想とアナーキーな考えは安易に直結しやすく、現状に築き上げた秩序を容易に破壊してしまう。

自分はそうまでしてすべてを壊したいわけではない。誰かに対して虚無思想を訴えかけ、他の人の価値観を否定するつもりはまったくない。ただ無意識のうちに、価値観を持っていたり、肯定している人に対して嫉妬しているのかもしれない。自分には自覚はないが、実際前向きな人間をタイムラインから外さないのはそういう理由があるからかもしれない。自分は未だに価値観を持つことに未練があり、それを欲している。にもかかわらず価値観を持てないといういらだちが、ネガティブな自己言及に拍車をかけている。

できるだけ自分はブログにそういう自己言及を押し込んでいる。それが今自分にできている最大限の努力だ。だが最近は不安定になってTwitterに吐いてしまった。それでまた迷惑をかけた。本当に申し訳ないと思う。