人生

やっていきましょう

251日目

忘れないうちに書く。自分の思考について。明日にはもう忘れているかもしれない。

自分は自分のことをよく考える人間だと認めている。しかし一般的に言われる通り、これは思考に時間を費やしたという事実を示すだけであって、思考能力そのものが優れていることを必ずしも示すわけではない。

自分の思考は、何か目的を達成するために優先順位をたてることも、自分の中に失われた動機を再燃することもできていない。何かを改善したという実績もない。ただ思考を言語化し、状況を整理することで安心しようとしているにすぎない。

これは謙遜ではない。自分の能力を真剣に見定めようとする人間は、自らの能力を低く見積もりやすいなどという与太話をしているのではない。自分の思考能力には致命的な欠陥があるということが言いたい。反復的な思考に甘んじているということだ。

思考は強化される。心に惹かれるものは反復し、そうでないものは忘却する。反復と忘却を繰り返すうちに思考の癖ができてくる。いつしか自分は、反復されたものしか見ないようになっている。

癖は連想しやすい。ある問題について考え始めたとき、見慣れた思考経路を辿ることがある。今まで見たことのない問題についても、経過や結論の付け方が似てくることがある(たとえば問題提起をしたあとに悲観的な印象を述べ、しかし問題についての具体的な言及を控え、最後にはある前向きな言葉によって文章を締めくくるといったもの)。

癖に流された方が自力で修正するよりも負担が少ない。だから自分が「何かを考えている」と思っているとき、今まで経過した思考をただ反復していることが多い。

いつしか反復に支配されている。以前どこかで考えた問題をふと思い出し、まったくの新発見であるように思いこむ。それをブログの記事に書いて、自分が以前と比べて前進していると過信する。はじめのうちは頭も回るが、途中から何を言いたかったのか分からなくなる。それで安易に連想しやすい方向に理路を繋げていく。

それらはすべて、以前自分がどこかで考えたことだ。はじめは何か新しいことを考えたつもりになっているが、最後の方になってみれば、実はただかつて結論付けた自分の考えを思い出しているにすぎない。

問題は反復された思考の癖を安易に信じてしまうということだ。ひとつの例を挙げると、最近の自分は自分の実力以上の問題には極力関わらないという結論を好んで下す。これは失敗から学びえたひとつの教訓だ。自分はこの考え方を基本的に妄信している。

だが本当にそうだろうか。2つの懸念がある。ひとつは自分の今の実力を適切に判断できているのかということ。もうひとつは自分が無理をしないことで挑戦が控えめになっているのではないかということ。この2つを妄信の中にあっては適切に評価することができない。

また妄信といっても積極的な妄信ではない。普段は思っていないが、ふと思いついたときにまあ確かにそうだろうなと思えてしまう、消極的な妄信である。自覚がない分、余計にたちが悪い。行動しないこと、控えめであること、挑戦しないこと、慎重であること、自己評価が低いこと、これらはもはや自分の思考の基本になっている。

このように、自分の中の反復から導き出される解法(解決というよりはむしろ安心を求めた言い訳)によって自分は「考えている」と思っている。決して、自分の発想の外にある思考を重視しない。反復的に考えたもの以外は存在しない。反復はそのまま強化され、歯止めが効かない。だから何も変わっていない。

自分の反復的な思考から逃れるためには、外部からの圧力を自分に引き入れることが重要だ。つまり、自分の頭では到底思いつかないようなことを常に学習し続けていく必要がある。思うにこれまでの自分はインプットというものを軽視しすぎていた。自分の分散的な認識を重視し、ある分野の体系を自分の中に取り入れることをしなかった。ある分野の知識を、自分で思いつかなかったことは癪だからといって拒んできた。

先日Besiegeというゲームをプレーした。自分は頑なにwikiを見ないと豪語し、自分の思いつきひとつで果敢に挑戦し、兵器を作るにも単純な図形を組み合わせるにとどまった。一方そんなことは気にしない知人のひとりは、有志の創った優れた機構modをデータとして保存し、リバースエンジニアリングすることで学習しようとしていた。またもうひとりの知人は動画を見て興味のあるものについてはとことん調べていた。しばらくして2人は複雑な機械を作ることに成功していた。自分だけが取り残されていることに気づき、途方に暮れていた。自分は自分の中に宿る独創性を過信していて、インプットを怠っていた。その結果は一目瞭然だった。

インプットの重要性は自分でも分かっているつもりだった。いくつかの作業では自分の思いつき以上に有用な方法論や知見を重視している。だがゲームとなると、どうしても本能的に求めているやり方を採用してしまう。おそらく意識しなければ、日常生活のいかなる点でもそう考えてしまうだろう。そしてその無意識は、自分が思っている以上に自分の生活と思考に満たされている。

自分は本来目的を達成するために真剣に努力する人間ではない。努力という言葉自体そもそも嫌いだった。とにかく自分は今あるこのままの自分を表現したい人間なのだと思った。それは自分という存在が無条件で肯定されたがっているということだろう。半端なアートの人間にはよくあることだ。表現を承認欲求を満たす手段にしているのだ。

この自尊心の欠乏状態が努力を怠らせ、インプットによる能力・思考の変化を妨げる。今の現状が肯定されたいという願望が、そのまま反復的な思考によって強化され、自分の自尊心は脆いまま肥大化し、自分はどこまでも強靭になれるという過信と、一触即発ですべてが総崩れするという不安を同時に抱えている。

とにかく学習の態度を見直す。インプットすることを自分の思考の基本に据える。自分はこれまでいくつかの分野で創作を行ってきた。ドット絵と音楽に関してはインプットの結果として、基本的な操作がある程度可能になった。この誰にでもできるような、しかし今までの自分には為し得なかった微細な成功体験を根拠に、自分はインプットすることを積極的に肯定していく。

GB StudioはネットとDiscordを使って情報収集を続けていく。Besiegeについてはwikiや動画を活用する。音楽については簡単なものでいいので曲の仕組みを学んでいく。その他の分野でも学習できるものは学習し、以前よりは進歩がみられるようにする。

幸いなことに、これらはすべて責任が発生しない、つまり失敗が認められる状況にある。そのため自分の中で学習したことを実践に生かすという一連の流れを自分に根付かせ、そこに自信を持たせられる契機になる。今日からこのことを頭から離さないようにしたい。

 

(この文章自体、かつて思いついた反復的なものであったということを書いてから気づいた。とはいえ反復自体に罪はなく、どの反復を自分に課すかということが重要であるように思う。この場合、反復に無自覚な自己を強化する反復を改善しようとすることは自分にとって都合の良い反復であるように思う。ただし盲信はしない)