人生

やっていきましょう

252日目

今日は1日何もしなかった。習慣だけ淡々とこなした。

とにかく無気力な状態が続いている。何をするにも動機がない。自分で設定した目標を信じることができていない。何をしても虚しいだけだ。

自分は今まで他人に動機づけられてきたのだと実感する。人の目を気にして自分の関心を殺し続け、人の言いなりになっていた。学生時代は半ばいい子で来たが、自分の場合、抑圧されたまま終わりたくないと思っていた。それで自分はもがいていた。

このもがきが自分らしさだった。 抑圧を克服しようとする動機が確かにあった。自分は自分を勝ち取るために全力を出していた。そのために無理な努力をしていた。

だがこれすらも、外部から与えられた制限に応える形で生まれたものではなかったか。今まで自分がしてきた努力は、いつも他人の目線を意識して行っていたことだった。受験が純粋な学問に対する動機以上に、他人からの賞賛を求めていたこと、自分にとって恐ろしい存在である多くの他者に対して、自分の力を示したかったということがあったことは否定しない。自分は何よりも他人を恐れていた。

自分が本当に好きなことに対して努力をしたという記憶がない。この1年、自分は努力をし続けてきたが、自分が好きでやっていたという実感がない。危機感が何よりも自分を動かした。そしてその危機感の正体とは、社会からの期待、他人の目だろう。自分の努力次第で、10年先は社会人にも正社員にも、あるいは自分の望む姿にもなれるだろう。なのに安易に何もせず人の目が怖いということを受け入れて、ひきこもりやニートのままでいることを選ぶのは苦痛に感じる。

この1年で危機感は収まるどころかかえって増している。「お前は努力をした、改善したというが、現状は何も変わっていない。お前がつけている記録は行動しない言い訳で塗り固められており、現実問題に立ち向かうこともしないで、苦し紛れの創作に逃げている」と毎日誰かに言われているような気がする。

危機感とは「お前は間違っている」「お前に生きる価値がない」といわれることに対する恐怖である。そう言われることに過度な恐怖を抱いている。世の中には大した挫折もしないで気ままに生きている人間もいる。そういう人間の気ままさが自分は欲しかった。しかし自分は、やはり社会の倫理に忠実な人間でなければならないという激しい思い込みゆえに、気ままに生きることに罪悪感を感じている。

危機感を感じる一方で、自尊心を高めたいと思っている。このふたつは両立しがたい。危機感からは自己否定しか生まれない。今の自堕落な現状を否定し、時間を有効活用し、無駄をなくし、努力して賢くなれ、自活できるようにしろという激しい叱責を自分にかける。だが自尊心とは、そこまで過度な努力をしなくてもいい、ありのままの自分でいい、誰かと比較しなくても、自分の良さを自分で受け止められる、そういう感情だ。

自分はこの感覚を、どうでもいいゲームや運動をしているときにたまに感じる。だがその他のことはすべて危機感であって、とにかく自分の優位を確立しなければならない、自分のベストを尽くさなければならない、常に前進し、成長しなければならないと躍起になっている。だが何をしても満たされない。自分の素朴な自尊感情はすべて危機感に殺されている。

危機感に従い続けている限り、自分の選択を受け入れることはできないだろう。何をしても焦りと後悔と、間違いに対する不安で埋め尽くされている。危機感は確かに自分を動かすが、本当はこんなことに振り回されたくない。自分はただ安心したい。自分の過去や現在、未来がどうあれ、自分は自分のままでいいと思いたい。だが危機感がそれらを見えなくする。

だが危機感を鈍らせ、自分の中で自堕落な生活を受け入れてしまうと、今のような状況になる。ただ無気力な毎日が続く。おそらく自尊心はこの無気力の先にあるのだろう。だがはたして、そこまで自分の心が回復するだろうか。自分の心が壊れてしまって、もう何をしても無気力以上の自尊心を抱けないのではないか。

この問題は簡単に解決できるものではない。10年間ずっと自分を歪ませてきた価値観が修正されるには1年では足りない。少しずつ失敗に対して自責することを減らしながら、自分の選択に自信が持てる範囲を増やしていく。