人生

やっていきましょう

254日目

『Dead Cells』というゲームを始めてから何かに取り憑かれたかのようにそのこと以外考えられなくなった。ゲームが与えてくれるこうした没入には功罪があるともいえるが、とにかくその日は自分が存在する意味がわからない1日から、明日また同じことをやろうという忘却の1日となった。

告知を見たのは先日のことだった。知人から『Dead Cells』が1週間無料だという話を聞いてストアからダウンロードした。正直乗り気でなく、こんなゲームをするよりも自分がどうすれば生きやすくなるのか、あらゆることが無意味にしか感じられないことについてどう向き合うべきかを考える方に執着があった。だがおそらくそのどちらも部屋の中で悶々と考えるうちからは生まれてこなかっただろう。単純な話だが、面白いゲームをやりこめばそんなことを考える暇はなくなる。今回の『Dead Cells』はそういう単純な答えを与えてくれた。

 

自分がこのゲームに没入した理由をいくつか挙げる。まずこのゲームは死にやすい。個人的に死にやすいゲームは自分の没入感を高めやすい(おそらく自分は何度でも挑戦することが本来的には好きなのだ)。

つぎに設定目標がどんどん高くなる点。このゲームは難易度が5段階用意されている。だが初めから選べるわけではない。ラスボスを倒すとスタート地点に戻ることになるが、その時入手したアイテムを使うと難易度が上がるという仕様だ。それが初期難易度に加え4回分ある。最高難易度をクリアすると何かがあるらしい。自分はまだそこまで行っていない。

またアクション性が高い。操作の僅かな強弱でずいぶん遠くの方に飛んだり跳ねたりする。不快感を抱かせない。死んでも心地よさが残る。また相手も似たような動きをしてくるので、緊張感が止まらない。

また一番やりがいを感じたのは、パワーアップアイテムによって隠しマップのルートに侵入できる点だ。はじめのうちは次の難易度のラスボスを倒すより、パワーアップアイテムを探すことばかりしていた。それだけで面白いと感じていた。

『Dead Cells』は今まで自分が経験したことのなかった没入感を与えてくれた。気が付けば寝ても覚めてもダンジョンのBGMが頭の中をかき乱し、はやく続きをやらなくてはと思うようになった。こうした没入はそうあることではない。だから熱が冷めないうちに書き留めた。いずれ冷めるだろうが、没入していたという事実を記憶に残すためにも書きたかった。

なにかに面白いと思えるうちは面白いと思うべきだ。自分にとってはつまらないことが多すぎて、面白いと思えることがほとんどない。2018年からそう思う頻度が急速に増加した。今ではほとんど失望の念しか感じないし、それを自分は挫折と呼んでいる。

ただ単純な話だが、挫折して以降の自分の生活はほとんど変化していない。失意の中から始まった1年前と今とで、自分の生活を変化させる要素がほとんど皆無に等しい。だからこそ自分の気の持ちようだけで変化を志向しなければならず、そこに途方もないエネルギーを投入させようとして、ほとんど毎回失敗している。

自分が何も面白くないのは、「何も面白くない現状」のままでいるからではないか。反対に、自分が何かが面白く感じるのは、「何も面白くない現状」に変化が生まれた時ではないのか。今回『Dead Cells』を紹介されてプレーして、自分の1日は僅かに好転したが、この好転を得る機会はおそらく自分の頭の中からは決して生まれなかった。なぜならこのゲームを見た瞬間に自分はまずはじめに「こんなゲームをしたところで何になるんだ?」だったからだ。

おそらく『Dead Cells』以外のことについても同じように思っているに違いない。自分は挫折経験で得た傷があまりに多すぎて、すべてのことが「こんなことして何になるんだ?」という状態になっている。その状況をどうにかしようとして自分の頭の中で必死に考えるが、頭の中にはどこまでいっても「こんなことして何になるんだ?」という認識以外見当たらない。そうして自分が感じた素朴な関心さえ、次第に腐食していって最後には使い物にならなくなるだろう。

関心という富を豊かに持つ人間は「こんなことして何になるんだ?」と感じる暇もなく満足して死ぬだろう。そんな人間はほとんどいないだろうが、大抵の人間がいつもそんなことを考えているわけではない。自分を騙し騙し満足させる対象を何かしら持っている。

自分はそれを求めることがバカらしいと感じていた。なにしろ自分が実存的危機に陥り精神的に挫折する前でさえ、自分が自分のままで良いといえる根拠を自分は何ひとつ持たなかったからだ。自分の自我は、自分が存在していい人間ではないという自覚からスタートした。それは今でも変わっていない。だから誰かが何かを楽しんでいれば、それが滑稽に見えるのだ。

だが自分が滑稽にしていた人間は生きることに前向きであり、現状を正しく見つめていると自認している自分(これもある意味滑稽だ)は不幸になっている。それどころか完全に根治不可能なほどに、自分という人間はひどく歪んでしまった。

こうした状況にあり、人の勧めを受け入れるのは癪だとか、今更価値観に対する信仰を取り戻そうとするのはダサいだとかという感情を抱かないようにするのは難しいが、とにかく今回の経験で、面白いと思えることには面白いと思ってもいいだろうなという風には思えた。自分は自分でも気持ち悪いと感じるほどに生粋の洗練された皮肉屋で、面白いと思える自分の感情にさえ皮肉の矛先を向けることを厭わなかった。そういう自殺行為の末に今があるのだと思えば、これも因果応報というものだろう。

とはいえ『Dead Cells』を楽しめたのはまだよかった。自分でも面白いと思えることがあるのだ。若さゆえか、本当はまだ傷が浅いのか定かではないが、とにかく楽しめるうちは楽しんでおこうと思う。

記事を書き終えてそういえば、と思った。「自分はどうしてあんなに没入していたんだろう」。腐食はまもなく始まった。