人生

やっていきましょう

255日目

動機について考える。動機とは自分が何かを行いたいと思う理由である。だが「動機」も「理由」も仮構のものであって、そもそも存在しているわけではない。あるいは、知覚されても本来は言語的に認識されているものではない。

自分が陥っている動機の不在状態は「動機」というものがあると仮定して、しかしそれが存在しないことに対して嘆いているといった印象を受ける。多くの人を見ていると、動機を持とうとして持っている人はほとんどいない。気が付いたら持っていた人が多い印象を受ける。

動機がとくに自覚されるのは今まで自明であった動機が通用しなくなったとき、動機に懐疑的にならざるを得なくなったときだろう。より具体的に言えば、無意識的に動機を湧かせることが困難になった場合だ。泉が湧いてるうちはいいが、枯渇し始めたとき、遠くから引っ張ってくるか、その泉は諦めるか、泉を自称して実際は水を外注し電気で沸かせるか、何でもいいが、とにかく動機の枯渇状態にあってはじめて動機そのものの存在に目が行く、ということは多いのではないか(もちろん例外はいくらでもある。枯渇しなくても同期そのものを積極的に意識することは可能だ)。

ではどうしたら動機を持たせられるのか。ここで動機を維持できている人間を参考にする。自分が見る限り、まず第一に自分の思いや感情を否定していない。たとえば何かおいしいものを食べたときにうまいと感じることに抵抗がない。ここに生き物の血を流して良い思いをしているだとか、働かないで食う飯はうまいかなどと考える余地はない。そういう理屈によって自分を歪めることはない。

自分の感情を受け入れたとき、つぎに来るのはもっとそれが欲しいという感情だ。何か良い思いをしたとき一度満足を覚えるが、そこに飽き足らず更に多くを求めようとする。だがこれは人による。自分が抱いている僅かな快さで控えめに満足する人もいる。一方で満足したら刺激に慣れてしまい、更に多くのことを求める人もいる。

前者は獲得の問題であり、後者は維持の問題だ。個人的な話をすれば、自分は更に多くのことを求める人間だ。つまり一度動機を獲得してしまえば、その維持はスムーズに行くという自認がある(『Dead Cells』がいい例だ)。だから自分にとっては獲得の問題の方が重要だ。

動機を獲得するためには自分が良いと思うことに対して理性で歪めないことだ。この理性で歪めるという仕草を調整しなければ、自分は遭遇するいかなる機会に対しても偏った見方をするようになるだろう。

たとえば絵を描くことについて「子供っぽい」だとか「現実逃避」だとかいう理屈を自分は真っ先に予測する。結果、自分がそう思われることを酷く恐れるあまり「じゃあ絵は描かないでおこう」と思っている(実は絵を描くことそれ自体にはまだそれなりに動機がある)。ゲームの開発についてもそうだ。誰かに否定されることが頭によぎると、もうそれをやりたいとは思えない。長続きしない理由がそれだ。

これでは動機が根付かない。繰り返すが、必要なのは自分が思ったこと、感じたことを頭で歪めないことだ。歪めないようにするにはどうすればいいか、ということを端的に指摘することはできない。多くの人間はそれが得難いゆえに悩んでいるのだ。誰かに褒めてもらうのが一番だろう。だがそれも困難な人もいる。そうなると抽象的な結論しか出せなくなる。自分を否定しないこと。現時点ではそれくらいしか思いつかない。