人生

やっていきましょう

261日目

自分が今生きている時代は最も情報に恵まれた時代であると思う。何かをしようと思った時、大抵の何かができる時代だ。たとえば絵を描こうと思ったとき、絵の描き方を一から考える必要はなく、必要な方法を体系的にネットで学べる。また必要な機材も、常識の範囲内では情報が共有される。またそれらを基盤にある程度自分の絵を確立した人間同士が、互いの作品とアイデアを公開し合って切磋琢磨することができる。これらをする機会が既に用意されており、ただやる気ひとつあれば大抵のことはできる。そのことが十分約束されている。そういう文化的に最も華々しい世界に自分は生きている。

自分と同じことを考える人は大勢いる。ネットを見ればわかる通り、多くの人間が絵を描いている。あるいはゲームを作っている。あるいは音楽をかき鳴らしている。その他の文化的活動に精を出している人もいる。自分はそれを見て悪い気はしない。むしろ触発されたがっているし、もし望むのであれば同じように活動したいと思っている。

だがこの華々しさとは対照的に、自分の心にぽっかりとあいた空洞はもはや何ものも満たすことはない。これだけ豊穣の時代にあって、自分の心にはすべてが失われた、あの穏やかな荒廃しかない。日本の戦後、あるいは度重なる震災、それらを経た人間の、何ものも残らなかった空白は、おそらく同じ類のものだっただろう。

自分には何もない。一時的な誤魔化しはできても、長期的な方針を定められない。自分が今までしてきたことは何かの足しになっただろうか。それは自分らしい選択だと思えただろうか。自分にはそう思えなかった。すべて「仕方なく」「何かやるとしたら」という消極的なものだった。どこか嫌々やっている。自分が積極的に何かをしたいとは思えないでいる。そんなことはないとどこか自分を誤魔化そうとしてきた。だから偽りの動機を散々自分に与えてきた。だがどれも所詮は偽りなのだ。本当に望んではいない。

自分はこれが、一時的なものだと信じたかった。つまりいつかは改善可能なものであると思いたかった。ただ、それがどうやらそうではないらしいということを知った。自分は自分を持つことから目を背けてきた。そして失敗した。そのツケを今払わされている。

これが世界全体で起きていることであればよかった。だがそうではなく、これは自分だけ(少なくともほとんど少数の人間)に起こっていることらしかった。大局的に見れば文化に対するかつてないほどの賞賛を浴びて、今こそ文化の時代だという機運が高まっているように思える。その根拠は情報のアクセスのしやすさとグローバルな流れが生まれていることだ。そして自分の好きなものを取り入れ、嫌いなものを視野から容易に外すことが可能になっているということだ。そういう時代にあって、自分を持たない人間、自分の好きを持てない人間など異常だという圧を感じる。だから尚更、自分が自分を殺し、他人に合わせ続けるなどということは、時代の流れに反したものだっただろう。

自分が壊れていなければ、と思う。小さい頃から自分に向きあえていればよかった。自分の興味を他人に決めさせるのではなく、自分で決めればよかった。誰かに否定されても流されず見捨てずに自分を守ればよかった。守った人間には繁栄の機会が約束され、捨てた人間にはなにもない。それで結局誰かの言いなりになることになるだろう。

ただ自分はここで折れるわけにはいかない。少なくとも自分に正直になった方が生きやすくはなるだろう。まずは他人がどうとか、世間がどうとかいうよりも、自分を確立するところから始めてみる。自分が壊れているという前提を受け入れて、そこからどう自分を補強できるかを考える。