人生

やっていきましょう

262日目

本を読むとき、はやく読まなければと思って急いで読み終えてしまうことがある。だが実際、そういうときはほとんどなにも読んでいなくて、後から振り返って何がそこに書かれていたのかまったく覚えていないときがある。本を読むという目的だけが先行して、肝心の中身を吸収出来ていない。読みにくい本を読むときにはよくあることだ。

自分は活字慣れしていると思っていた。だが自分が慣れているのは分かりやすい表現を意図して書かれたもの、あるいはそもそも何かに対する単純な感想であって、数百年前の著作の邦訳を読むときなどには当てはまらない。そこで想定されている読者はある程度専門的な知見を持った人間、もしくはもはや使われなくなった言葉や思想の価値を認める人間であって、自分のような無学な人間ではない。

日本語の書物に比べて、翻訳された海外の書物は理解が難しいと感じる。日本語の難解な文章の中には、すべて理解できなくても、やはり自分の心を掴ませる何かが薄く見えるときがある。これは文学に限らない。対して海外の邦訳はどこか違和感を抱えながら読まなくてはならない。日常に根差した生きた言語というよりは、どこか機械的に当てはめられた言葉というような印象を受ける。だから一旦音のリズムや無条件的に受け入れている印象を排して、純粋に理性だけでその文章の内容を把握する必要がある。

これは翻訳者のせいだろうか。あるいは海外の言語的感覚がそもそも自分に合わないのか。いずれも主たる原因であるとはいえない。おそらく自分が、読んでいるときほとんど頭を使っていないことが原因だ。日本語の感覚で流し読みしているから分からなくなる。自分は(認めたくないだろうが)名著を読破したという実績が欲しいあまり、本の1文1文に注目して、その文章を吸収しようとしていない。読んでいてわからない部分をじっくり考えることもしない。とにかく自分は読み終えたいのだ。

ならば日本の本だけを読めばいいのではないか。だが自分が関心がある問題を扱っている本は海外の方が多いと感じる(自分が知らないだけかもしれないが)。そこにジレンマがある。原語で読むほどの実力や忍耐力が今の自分にはない。また邦訳と原語を比較して読む気力も自分にはない。だから辛抱強く頭をつかって翻訳から汲み取る他ない。

とにかく読みたいのではなく「読み終えたい」という衝動が自分の心の中に根差しているのは悪い傾向だ。ゲーム感覚で実績を解除するような気分になっている。本はクリアすべき対象ではないし、急いで読み終えるべきものでもない。読んで何を自分が学んだかということが重要だ。月並みなことだが、そのことが分からなければ本を読む意味がない。目的を取り違えてはならない。