人生

やっていきましょう

271日目

部屋の掃除をしていたら過去の資料が出てきた。中学・高校時代のノート、大学のプリント、新卒採用の資料、どれも自分の記憶からなかったことにされていた。嫌な記憶がよみがえる。かつてこれらの問題に自分はひどく翻弄されてきた。そしてそれら一切を自分はドブに捨ててきた。

1年経ったということがまだ信じられないでいる。自分の心の傷が癒えたとも思えない。むしろ前以上に悪化している。虚無感が増し、危機感がなくなり、前まで楽しめていたことが色あせてきた。

毎日自分に対して怒りを感じている。すべてがうまくいかない。自分には社会的な生産能力がないばかりか、何かを持続して楽しめる能力すらない。面白いことをひとつとして言えない。そういう人間には価値はないかのような現代の風潮に晒され続け、自己嫌悪を抱かざるを得なくなる。

救済はない。毎日自分が自殺しない言い訳をついている。自分には価値がないという事実確認を行っている。事実そうなのだ。死んだ方がいいという価値すらない。

自分にウソをつき続けるというのが本当に苦痛だ。なにかが自分にとって価値があるように思いこませようとする努力は、自分では滑稽とわかっていながら、そうしなければ生きていけないという点で残酷だ。何かを拠り所にできる人間は救われるだろう。自分にはそれがない。もうそれが生まれるとは思えない。

世間を呪い続けられる人間もまた幸いである。なぜなら不満をぶつけることで、社会や政治、身内のせいにすることで、自分を正当化できると本気で思っているからだ。だが実際はそうではない。自分にも原因があり、他人にも原因がある。様々な要因が絡んで今という結果を生んでいる。だからあいつが悪いとか、自分の環境が悪いとか、そういう言い訳はもはや意味がない。自分が制御できないところのせいにしたところで、解決することはない。

ひょっとしたらうまくいくんじゃないか、と思うこともない。ひょっとしたらはそうそう起こらない。それをアテにした時点で終わりだ。宝くじが当たらなければ人生が終わると思っているくらい滑稽だ。

こうやって存在しない救済の可能性をひとつひとつをつぶしていくことで、自らの虚無が加速する。突き詰めて考えれば考えるほど、自分が自殺しない理由が、自らの自然な延命衝動以外に存在しないことを認識させられる。

自分は家族や隣人、社会で生きている多くの人間と同様に、飲み食いもすれば眠りもする。だが唯一異なるのは、自分を稼働させる動機も意欲も、意味も、価値も何もないという点だ。ただ漠然と、自殺しないことだけを頼りに生きている。絶望しかない。