人生

やっていきましょう

272日目

Aoe2では「町の中心」と呼ばれる、一定間隔で街の人を生産できる施設がある。はじめのうちこれは1つしか存在しないが、時代を経ると複数設置することができる。町の人は労働力の要であり、資源の獲得には欠かせない。町の人が多ければ多いほど資源の獲得速度と獲得量は爆発的に増加する。だから町の中心を複数並置させることが重要となる。

町の中心が複数個存在することで町の人の生産が爆発的に増える理由は簡単だ。町の中心から町の人を生産するには17秒かかる。町の中心が1つしかない場合、17秒かけて生産できる町の人の総数は1人しかいない。だが町の中心が5つあった場合、17秒かけて生産できる町の人の総数は5人になる。仮に生産に85秒かけたとすると、1つの施設からは5人しか生まれないが、5つの施設からだと25人の町の人が生まれる。複数設置するとしないとではこれほどの差がある。

これらの点については以前触れた。複数施設を設置することで生産の時間短縮、効率化が可能となる。これらの点から何か教訓めいたものを見出そうとしたが、うまく言語化できなかった。自分の興味関心の欠落状態が1つか2つの弱い源泉に由来していること、関心に溢れている人間が湯水のごとく湧いてくる関心に浸かっていられるのは、強烈な源泉を複数並置しているからではないか、というような話を考えたが、そうしたたとえ話が今回の問題とうまく繋げられているような気がどうもしない。とりあえずそういったことをプレーしながら連想したということだけは記録しておく。

強烈な源泉というのは、夢や憧れ、自己肯定感や自己効力感を覚えられると確信していられる領域を指す。だがそうした源泉を自分はひとつひとつ潰してきた。そしてもはや自分には何ら動機の源泉がない。お前は黙って業務を果たせばいいという命令だけが、自分の頭にある。

それでも自分は自分を諦めたくなく、きっと何かこれが自分だといえるものに出会えると信じていた。しかしそう言い聞かせれば言い聞かせるほど、自分の頭は願望と現実の区別がつかなくなり、いや、区別が明確についているということに自覚的であったはずなのだが、敢えて願望の世界に閉じこもろうとして、ひどく混乱していた。今思えばバカげた話だった。もう二度と同じことは繰り返さないだろう。自分は動機の不在を偽ることはないが、これからは動機の存在を偽ることもしない。

貧乏な人間、裕福な人間が世の中にいるように、自分はかつて関心に溢れていたが恵まれない経緯によって関心を枯渇した貧しい人間なのだ。裕福な人間の無自覚な尊大さにあっては、飢えた人間の苦しみは分からないというのが世の常だ。それは豊かさが悪いとか、飢えが放置されているのはおかしいという以前に、そういった事実があるというだけのことにすぎない。自分は豊かさと貧しさの一目瞭然の境界をAoe2の町の中心にみた。豊かさというのは町の中心を5つ設置して各々の施設から常時町の人を排出し続けるあの爆発的な生産であって、貧しさとはかつて自分がプレーしていた、1つの町の中心に拘り続けるさもしいやり方なのだ。

圧倒的生産量の差が、これから1年、2年、5年と経るにつれて明らかになるだろう。そうなる前に手を打てればいいのだが、自分にはどうすればいいのか分からない。少しでもマシになるように、動機の源泉を増やし保護する方向に今は向かっている。どうやら道義や理屈をグダグダ言わずに「好き勝手やらせる」というのが良いらしい。

以前Aoe2の記事で「撤退戦」の話をしたが、まさしく今はその時期だろう。敗色濃厚な時期にあって、予め先手を打つことが重要だ。だが「自分には何もない」という確かな事実に目を背けることだけはしない。