人生

やっていきましょう

273日目

勉強に対する態度を確認する。自分は学習というとまず無気力と惰性が前提にある。頭を極力使わない、思いつきでうまくいけばそれでまずは良しと判断する。とりあえず片手間でできる範囲だけに注意を向ける。それでとりあえずは何か新しいことを学んでいる気分になる。

惰性と無気力から行動できる範囲はすぐに限界を迎える。それで自分はどうするかというと何もしない。何もしないで逃げている。試行回数が少ないので、安定した成果を出す事ができない。難易度がひどく高くなる一方で、成果が安定しないから不安が生じる。今までは自己破壊的に挑戦してきたが、今では不安が恐ろしいのでそもそも行動しない。

問題は単純だ。自分の成果が安定すればそこに安心が生まれる。だが自分は、試行回数が少ない中で成果を出さなければならないと思っている。だから不安が募るのだ。そして試行回数が少なくたまたま成功した成果を自分の実力と思い込んでしまうから、そのラインを維持、あるいは越えなければならないという枷を自分にかけてしまう。ますます自分の首を絞めることになる。

試行回数を増やし研鑽を続ける。この愚直な王道から目を逸らし何か抜け道がないかと考えてしまうのが自分だ。抜け道などない。天才的な適性があってきわめて少ない試行でその分野の核心を学び得るということはごく稀にある。だがそれは滅多にない。あるとしてもはじめから期待してはならない。

自分は何らかの挑戦に際して限りなく試行回数を減らし続けてきたので、常に方向の定まらない偶然性に自らの成果を委ねてきた。そこでは偶然に対する直感、つまり非論理的プロセスを経た天啓的確信というものを意思決定の主たる根拠とし、このひらめきをもって偶然的な状況を打開しようとしてきた。

この過程はまったくの無意味であるとは思わない。必然的な成果が期待できる領域にとどまり続け、安定した利益が得られる道筋を強化し維持することだけに囚われていては、自分が経験したことのない問題には極力関わろうとは思わなくなるし、挑戦しようとは思わなくなるからだ。それに明らかに世の問題は偶然性が占める割合の方が多く、与えられた条件をこなすだけでは務まらない。

だが直感を妄信して、奇想天外な妄想を天啓に奈落に突撃するというのは愚かだ。試行回数が少なく、それでも成功しなければと思うとき、人はどうやら独創的になるらしい(例えば恋愛経験の乏しい学生が考えた告白の文句などがそれだ)。大抵の場合、人生はうまくいかないことの方が多い。ならばまずは安定的な戦略を敷くことが基本になる。何も方針を定めず、何も学ばず、答えの無い問題に答えなければならないのであれば、それが緊急であり、重要であればあるほど、致命的な傷を負いやすくなる。自分はそれをやり続けた。そして致命的な傷を負った。

それに、不安を抱きやすくなにも行動できないのであれば意味がない。明らかに自分は不安を過剰に捉えている。その根拠が難易度の高い条件を(面倒だけど、成果は欲しいから)少ない試行で突破しなければならないと思い込み続けてきたことだ。それで周りはコツコツと学んでいて最低限適応しているという事実を無視して、自分の前に遥かそびえたつ膨大な壁と目をそむけたくなるほどの自分の矮小さに勝手に絶望し、無力を感じていただけにすぎない。

自分に今必要なのは最低限の基礎と安定であり、無力感と失望は精神の危機的状況にあって問題を過大評価しすぎたことで生まれた幻影であるということを認める必要がある。試行回数を際限なく増やす必要はない。自分にとって無理のない範囲に留めて構わない。直感を信じたいのであれば、それからでも遅くはないはずだ。