人生

やっていきましょう

275日目

久々に皇居を走った。全体の工程で6km程度かと思っていたが、それ以前にも歩いていたのでその日は13km歩いたことになる。

皇居周辺を走るとき、自分は今でも東京に住んでいるような錯覚を受けた。ルートから見える風景は大学4年間に何度も目にした光景であり、自分が上京して初めて自分の意思で取り組もうとしたことだからだ。走っている間だけ自分は自分らしさというものを感じることができる。自分にとって皇居を走るということはそういう意味合いがある。

奇妙なことを感じた。そうした記憶がありながら、過去4年間の記憶がほとんどない。自分は大学生だったという感覚すらない。受験が終わってから自分の時間は止まっている。あの時から4年が経ったという事実がまだ受け入れられないでいる。

だから尚更、自分が皇居を走っていたという記憶の信ぴょう性が疑わしくなる。もちろん走っていたのだが、自分にとって大学4年間は無かったことになっていたはずなのに、なぜか走っていた記憶だけがある。そういう気分を味わいながら、この日はひたすら走っていた。

自分がなぜ記憶がないかというと、やはり自分の人生を生きてこなかったからだ。講義で出題されたプリントを読む、与えられた課題と試験を黙々とこなす。自分の不安に煽られて無理に克服しようとする。すべて外圧の影響に流されて来た結果だ。自分の意思ではない。だから何も覚えていなくても当然ではある。

自分がしてきたことは自分が学びたかったことでも、やりたかったことでもないのだ。ただ与えられたものを無差別に吸収しようとした。だが決して自分から吸収しようと思わなかった。情報を飲まされ、経験を強いられていたという言い方が適切だ。そしてそれに自分は全力で応えていたが、自分が選択しているという自覚はなかった。

あの4年間で、自分が自分らしい選択をしたことといえば、本当に皇居をランニングしたこと以外にないのだ。自分に安心できた機会というのが、九段下駅から武道館を経て国会を通り大手町を通り、夕日を前に道すがらのマックを食べて駅で帰るという経験以外に存在しなかった。あの瞬間だけは他の人間同様、自分のしていることに素朴になれていたはすだ。

自分の選択を自分で決断してきた経験の延長に今の自分がある。当時大学やサークルで主体的に動けなかったのも、面接で自分のことが何も言えなかったのも、自分にウソをつき続け、誤魔化してきた結果だ。自分がしてきたことはすべて、他人や外部に流されてしたことに対して全力で自分のアイデンティティを捏造しようとしただけだった。

自分には何もないと思っていたが、かつて皇居を走っていたことだけは覚えていた。それすら自分にとってはもはや何の価値も見いだせないが、かつてと同様、今でも自分らしい選択であるということは認識しておきたい。