人生

やっていきましょう

276日目

多くの人間に共有され広く認められている価値観よりも、自分が心から受け入れられる価値観を求めた方が良いというのが最近の傾向であるように思う。自分が求めていない価値観、見るのも苦痛な価値観を我慢して取り入れようとする必要はない、というわけである。

今になってこの考え方がわかるようになってきた。自分の価値観を殺し続け、社会に迎合する必死の努力も虚しく挫折し、何の価値観をも抱けなくなっている今だからこそ、自分の感情、好み、考え方を守り続けていた方が良かったのだと後悔する。自分は自分の不安を消すために人一倍努力する必要もなければ、誰かの価値観を理解しようとして「それは違う」「誤解している」などという相手の身勝手な言葉を、我慢して受け入れ続ける必要もなかった。

自分は自分に否定的な人間のために、どうにか彼らの価値観に合わせようとしてきた。だから結局は自分を殺し、より多くの受け入れがたい価値を受け入れようと努めてきた。そうすることで自分は他人に嫌われないと思ったのだ。だが実際は、肯定的な態度を無理して表そうとすると、相手は自分の興味が受け入れられたと思って余計にその話をする。結局自分はまたその話を聞くことになる。

こうしているうちに、他人の加害性や無理解に恨みや憎しみを抱いてくるようになってくる。無理に合わせている自分の苦労をどうして分かってくれないのかというわけだ。だがそれも偏った見方だ。そもそも他人に会話のカードを切らせているのは自分だ。自分が傷つきたくないという思いで、また相手を傷つけたくないという思いで自分から話題を出すことを渋っているから、話題が言いたい人間の話題に場が支配される。不満があるなら自分に有利な話題でフィールドを支配すればいい(とはいえ支配的になることは少ないだろう。相手も同じだけ話題を出そうとするからだ。そうして均衡が保たれる)。そうすることもしないで被害者意識を持つのは少し違和感がある。

今では少し考え方を改めた。別に知人であれ友人であれ、理解し理解される必要もないのだ。誰であろうと自分の手札を自分はただ出すだけだし、それで合わなければ自分は距離を取るし、相手も距離を取って構わない。無論自分勝手に話題を振り回せということではなく、できるだけの配慮はする。だがそこから漏れた価値観や了解の不一致は諦めることにした。

こうした考えに転換してから、ストレスがあまりかからなくなった。他人に対する怒りや憎しみもあまり感じなくなっている。皮肉なことだが、価値を合わせようとしてきた頃は他人の考えのひとつひとつが鼻につくことが多かった。今ではそれ以上に寛容になってきている。他人に期待することも減った。

だがやはり、自分を構築することにはまだ失敗している。正直諦めている自分もいる。このように負け筋に希望を語ること自体、自分は惨めさや息苦しさを感じる。だが自分を否定し続けることに自分はもう耐えられないだろう。これは弱さだと自分では思うが、今は無理をしないことを受け入れるべきだ。今ここで不毛な忍耐を課す必要はない。