人生

やっていきましょう

281日目

勉強する動機はないが、それほどやりたくないとも思っていない。そういう時に少し無理をして行動に移せば、今まで感じていた抵抗がほとんどなくなる。

おそらく自分は直近の現状からでしか、今の自分の感情や意思を決定できないのだ。勉強をしようと思えないのは、そう思う直前に体が重く感じたり嫌な出来事があったり、寝不足で頭が働かず食事も十分に摂っていないからだ。

こうした状態を受けて「やりたくない」と自分は思う。すると自分を決定づけるおおかたの事実として、勉強を「やりたくない」ということが自明の前提になる。なぜ勉強を「やりたくない」かというと、その直前に既に勉強を「やりたくない」ということが自明の事実であったからだ。そしてそれは逐一言語化されることで、その自明性を強化しているように思える。

だからこそ、怠惰に陥りやすい自分の自明性を破壊し、勉強という異質な前提で上書きすることで、自分は勉強を「している」ということが当たり前のことになる。勉強をしているとき自分がなぜ手を休めないかというと、直近の状況では自分は勉強をしようと思っていたのであり、今の自分はその状態をただ維持しようと思っているにすぎないからだ。

その時自分はあまり難しいことを考えていない。「今までこうだったものをそのままの状態に維持する」程度にしか思っていない。だから自分は勉強を「している」最中にとりわけ疲れや空腹、眠気やストレスを感じることが無いならば、おそらく勉強をする手を止めないだろう。

こうした惰性的な傾向を自分の中で自覚できていれば、たとえば自分が希死念慮に襲われていたり、何かに怒りを感じていた場合には、直前まで自分は不安に駆られ怒りを感じていたのであり、現時点までそれらが維持され、あるいは強化されているに過ぎないと判断するだろう。そして維持と強化を誘発する要因が放置されている結果なのだから、現状を好ましい方向に改善しようとするならば、別の前提を自分に刷り込み、そのことを自明の前提にすれば良いと判断するだろう。

実際それらは無力な場合もある。だが現時点では、とりあえずやってみれば軌道に乗せられることもあると自然に思えている。なぜなら自分はこの1年で、自分にも調整可能な部分もあるという前提をじっくり刷り込んできたからだ。この前提を刷り込んだことは重要だった。そうでなければ自分はすべてが無意味であるという前提に立ち向かうことができなかったからだ。究極的にすべての物事には意味がないのだが、かといって打ちひしがれること、行動を拒むこと、傷つくことを恐れることに対して過剰に価値づけすることにも意味がないという気づきがあってこそ、自分はようやく行動に対して門戸を開けたという思いがある。