人生

やっていきましょう

282日目

必要もないのにゲームを開く。いつもの集合場所に集まって、寝るまでそこに居る。大抵は人がいてチャットかゲームで盛り上がる。けれども誰もいない日や、話題や目的がない日もある。そういう日でも自分はそこに足を運ぶ。

こういう生活を長らく続けてきた。自分はその場に集まることで一旦孤独を忘れ、心と頭を整理することができている。だが最近、その在り方に疑問が生じてきている。目的もなく集まり、その場に留まり続けることは本当に必要なことなのか。

幸い今の時点ではいくつかの目的がある。オンラインで特定のゲームをプレーすることはひとつの動機になっている。何か話題があってそれを人と共有したいと思った日には集まる動機を持っていられる。

だがそれが無いときもある。というより、無い時の方が多い。そこに人が集まっているとき「じゃあ何時に集合しよう」と口裏を合わせているわけではない。たまたま昨日もそこに居て、何となくそこに集まることが通例になっているから集まっているにすぎない。相手も同様だ。つまり目的を持たずにただそこに集まっている。そこで誰かがふいにこうしようと提案したら、そうしようと意気投合する。目的が偶然に、自然発生的に生じてくるのをただ待っているのだ。

この関係自体には問題ない。人との関わりというのは時間的都合と利害と目的のみに限定される訳では無いからだ。例えば学生の交友関係というのは、部活を除けば大体この無目的かつ惰性の集合に根差している。それはそれで機能している。

問題はその接続の時間だ。現実での交友関係というのは、常に制限の合間にあった。学生であれば授業間の休み時間、昼食時間、放課後という短い間だった。出会ってすぐに別れる関係だった。

だがネット上の関係は違う。接続は自分から切断しなければ際限なく維持される。現実の関係が1.2時間程度のものである一方で、ネットのそれは5.6時間が常だ。最悪12時間以上も接続していた時がある。

これは過剰だ。当然無目的の時間が大半を占める。だから何をしていいか分からず、(キャラクターだけがそこにあるため)誰が本当にそこに居るかわからず、膨大な虚無を前に、ただ何かが変わるのを期待して待っている。話題がないのに無理矢理話題を作ろうとして1分で終わってしまったり、最悪なことに相手に話題を出すよう要求してしまっている(これは自分から話題を出すことに対する抵抗感、またはその裏返しで相手が自分に何か話したいであろうという勝手な推測から来ているが、実際は相手に急な無茶振りを強いる以外の何ものでもない)。

大半の人間が放置をしている。自分が話そうと思った時に誰もおらず、レスポンスが不定期になる。相手と都合が合わない。それでも自分はその場に留まり続ける。自分の都合で遮断すると周りに悪いのではないか、雑な応対で悪く思われないか、ということが気になってしまうからだ。

だが今回、やはりそういうことはやめようと思った。これ以上誰がそこに居るか分からないのに、留まり続けるのは苦痛だ。人が悪いのではなく自分が悪いのだ。自分が無目的な集合と目的ある集合を混合していることが原因だ。

無目的な集合は、個人の都合、個人の裁量が優先される。来たい時に来れば良いし、都合が悪ければその場から離れてもいい。放置も認められる。

一方で目的ある集合は、その限りにおいて個人の都合を集団の都合に合わせることになる。オンラインの対戦で途中で都合が悪いからといってプレーを切断したらあまり良い気はしない。

自分はこの場に集まっていることには集団で共有している理由があるはずだと無意識に考えていた。だからその場にいる人間がほとんど放置していることに不満を覚え、自分が彼らが戻るのを数時間待ち続けることの不毛さに絶望していた。

だがそうではない。自分も彼らと同じように自由に出入りすれば良いのだ。放置したい時には放置して、自分のやるべきことを優先させる。眠くなったら無理に合わせる必要はない。話題が尽きて何もやりたいことがないなら、無理に相手や自分を拘束せずにログアウトすれば良い。それは必ずしも寝る間際でなくて良い。要するにメリハリをつけるということだ。

自分は他人に配慮しすぎるあまり、他人にも同じ条件を求めがちになる。必要なのは慣性を破る自分の意思だ。幸い拘束の無い集団なのだから、自分を優先させることを悪く思う人はいない。

そのため今後は以下のことに注意したい。

まずは集まる際にはいくつか目的を携えて行く。話題や目的が尽きたら他人にその捻出を押し付けるという失礼なことはせず、自分で有利な状況を生み出していく。それができなければ放置かログアウトする。一旦切ってもまた都合が合えば戻っていい。間違っても誰が来るか分からない状況でpc前で数時間待ち続けることはしてはならない。また相手の都合を強制してはならない。