人生

やっていきましょう

291日目

昼に運動を回してから夜に至るまでの精神的な余裕が生まれた。この時間を活動に充てても何ら問題なく機能するだろうという確信がある。先日は読書を割り当てていたが、1日で止めてしまった。何も考えずにゲームに流された。これは失敗だった。

昼にゲームをすることのデメリットがいよいよ自覚されてきた。ただ惰性でゲームをやる以上に自分にとって強烈な動機を与えてくれるものが無い。結局目先の安心を求めて生きているだけなのだが、こうした日々がそう長く続くとは思えない。何より自分が耐えられない。

自分が追求すべき点はただ一つ。すなわち自分の恐怖が歪めている認識を修正し、行動可能か否かの判断を適切に行うべきだということ。たったこれだけだ。人が怖いという思い込みは、過去自分が人を恐れるきっかけとなった出来事を経験し、そのことを根拠にそう判断しているにすぎない。それは自分が考えているほど重大なことではない。運が無かったというだけのことだ。

自分が何かを果たす自信がないというのも歪められた認識だ。できることはできるし、できないことはできない。その可否も「現時点では」という注釈がつけ加えられている。要するに僅かであれ何かを変えようという意思と行動さえあれば、少なくともそう思って行動したことによる結果が得られる。それは失敗するかもしれないし成功するかもしれないが、それはあまり重要なことではない。思い込みを振り払ってとにかく行動しようとした、この点が重要なのだ。

下品なことをいうと、たとえば誰も自分を分かってくれないという孤独に耐えられないのなら、自分を分かってくれる人間のそばに行けばいいのだ。あるいはどうしても欲しいゲームがあるのなら、金銭の欠乏状態に悩んでいないで日雇いでも短期バイトでもすればいいのだ。人生に価値がないとしか思えないのであれば、難しいことを考えず安心感を得られそうな価値観に酔ってしまえばいい。あるいは自分に有利な価値観で自分を固めてしまえばいい。思い込みがなければ、問題などたったこれだけのことにすぎない。

問題が最も難しくなるのは、それを「したくない」という思いに自ら支配されているからだ。たとえば自分は確かに孤独を感じているが、それを表立ってアピールするのは恥だと考えており、誰にも頼らず自分の力で切り抜けることが強者であることの証拠となるという正当化をどこかで行っている。同じように欲しいゲームがあるのにバイトのひとつもしないということは、人から無根拠に怒られることに対する恐怖、理由があっても不当に貶められることに対する恐怖からであり、それゆえどうにか今ある貯金で何とかできないかと考えてしまう。人生に価値がないという気づきも、どこかその気づきを誤魔化したくないという思いが介入し、人生を豊かにする虚構に浸りきるということを不毛だと決めつけている。

要するに自分は自らの直接的な願望に対し、それを否定するような願望もまた持ち続けているのだ。この否定の願望は人生の苦境に適応しようとして自分を正当化するために生み出したものだろう。そうすることで少しだけ安心感が得られるからだ。だがこのままではいつまでたっても僅かな安心感で致命的な問題を誤魔化し続けることになる。

今できることはとにかく自分が避けてきた行動を取り組むこと。自分の思い込みが今まで選んでこなかった部分に活路を見出すことだ。今日は昼の運動の重要性と、日中のゲームが不毛であることを自覚した。正直こんなことで誇っていられるのは何ともおめでたい話だが、自分は誰それに対してつまらないプライドを抱けるほど大層な身分ではなかった。今や自分は失敗し落ちぶれた人間なのだ。そういう人間にはこの程度の改善に満足しているのがふさわしい。ここで積み上げられない人間が、これから先も積み上げられるわけがない。