人生

やっていきましょう

300日目

昼に運動をしてそのまま日が暮れるまで読書をした。読もうと考えていた2冊のうち、今日で1冊を読み終えた。申し分のない切り出しだ。この調子でもう1冊を読み終えたい。

読んだ本は『サピエンス全史』という本で、大学2年の頃に買ってそのまま積んでおいたものだ。少し気になって今更ながら読み始めた。虚構に関する認知革命によって人類は他の動物を圧倒したという話が延々と書かれており、生きる意味や価値に対する信頼をほとんど失った自分にとっては身近な題材だった。

特に関心を惹いたのが第六章に記されている「想像上の秩序」に対する3つの主要な要因だ。すなわち「想像上の秩序は物質的世界に埋め込まれている」「想像上の秩序は私たちの欲望を形作る」「想像上の秩序は共同主観的である」というものだ。またこうした「想像上の秩序」を信じさせる(信じる)ためには「人々を徹底的に教育する。生まれた瞬間から想像上の秩序の原理をたえず叩き込む」こと、また「その秩序が想像上のものだとは、けっして認めてはならない」ということだ。

自分のこれまでの逆境的な状態、とりわけ2018年の挫折と記録を始めた2019年以降の停滞状態を説明する上でこれらの題材は有用だ。大前提として、まず自分は「想像上の秩序」から生まれた人間だった。日本という国に生まれ、行政機関が与える教育の恩恵を多大に受け、国や社会という「想像上の秩序」、あるいは文化や芸術という虚構に強い感銘を受け、親しみを覚えていた。おそらく自分は僅かながら「想像上の秩序」に対する純粋な好奇心を持っていて、そこに安心と満足を覚えていたのだ。

だがそうした素朴さもあっけなく崩れ去った。その要因は次のように言うことができる。自分は小さい頃から一貫して継続してきた他者に対する過剰な不安を抱いていた。それゆえ自分は人間に対する猜疑心と冷笑さを持っていた。また十分なコミュニケーションと適切な人間関係を経験しておらず、孤立し、一人自分の頭で考えるということが常になった。その状態を正当化するために自分の中で人間関係に関する禁欲的な教義を確立し、欲の源泉を自ら断とうとしていた。

つまり自分は冷笑と猜疑心によって「想像上の秩序」が形作る「共同主観」を破壊し、連帯願望や性欲といったものを禁欲(コントロール)することによって「想像上の秩序」を形作る「欲望」を抑制したのだ。これにより自分は自分の絶対性という「想像上の秩序」を新たに確立しようとしていたらしかった。だがそれが裏目に出た。自分が中指を立てて抑えつけようとした「欲望」と「共同主観」こそ、まさに「想像上の秩序」の担い手となるためには必須の要素だったのだ。それを否定して確立した反旗など単なる負け犬の遠吠えに過ぎず、しかしそうであると叫び続けることがまさに自己の存在証明であると思っていたから、自分は自分で首を絞め続けていてもなお、その手を放そうとしなかった。

このささやかな反逆が小さいながら自分の人生の主たるテーマとなっていたのだが、自分は長い間不安にさらされ続けており、その目論見はあっけなく失敗に終わった。自分は反逆的でありながら、同時に迎合的でもあった。自分は反逆的な姿勢から大学受験に取り組んだ。だがその合格が、実は社会迎合的であるという逃げ道も用意していた。そしてその恩恵を自分は受けていた。自分はずるい人間だった。

就活でも同様のことを考えていた。だが受験の時ほどは冷静さを欠いていた。精神の不安定が更にエスカレートし、自分は既に反逆的でありながら迎合的であるという今までのやり方を維持する力が残されていなかった。

自分は就活という場をそれまでの人生の総清算であるという宗教的な見方をしていた。自分は天国に行けるのか?地獄に落ちるのか?神の名において行われる最後の審判に等しかった。これは偏った認識で、事実はビジネスの文脈に則り自身のバリューをアピールしろということにすぎなかった。だがそれが自分にはできなかった。自分は社会が価値を置く「共同主観」の信者ではなかった。自分は恵まれた生まれではなかったので、人と人とが助けあう、社会に恩返しをするという発想が全く持てなかった(それこそまさに労働が掲げる共同的な理想であったのだが)。

自分は社会的に見れば価値の無い人間でしかないとしか思ってこなかったし、何を訴えれば良いのか分からなかった。純粋な意味で働く動機が持てなかった。今までも自分は他人の目や世間体を意識していただけにすぎない。世間の目が恐ろしく、仕方なく社会の通念に迎合していたにすぎなかった。むしろ自分は恐ろしさから心血を注いで迎合してきた。だからもう十分、社会や世間に奉仕し尽くしたのに、なぜまだこれ以上奉仕しなければいけないのか分からなかった。だから本心からではなかった。また連帯と協力を求める社会の物語であるフィクション以上に、自分が好むと好まざるとにかかわらず連帯と協力を促している金銭の方がよっぽど信頼できるというのが本心だった。だがそういうことが忠誠心を疑われる行為であるということを自分は知っていた。

それでも自分は自分の生存が社会的に歓迎されているという僅かな期待を捨てられなかった。精神的に限界だった時、自分を価値づける動機はほとんどなく、ただ「すべてを許されたい」「受け入れられたい」という思いしかなかった。またそうあることで自分は、『放蕩息子の帰還』にあるごとく、一切が許されるであろうと思っていた。

だがこれはすべて精神疲労からくる自分の妄想だった。その僅かな期待をすべて奪われたとき、自分の中で一切の希望が消えた。自分は「共同主観」の物語の人物になる道を断たれたのだ。正確に言えば自己の確立という反逆を試みながら「共同主観」の一員となる道を絶たれた(単に「共同主観」の人物となるだけなら簡単だ。周りに倣い今すぐ仕事につけばいい。あるいは大学院に進めばいい。要するに社会に期待されている模範に倣うだけでよい。だが自分の中に、社会の物語を担う動機が自分の中で破壊されもはや存在しないこと、ゆえに信頼に置けない人物として排除されるであろうことは容易に想像できる)。

この一連の出来事を自分の中では特異なものにしたがっているが、理想主義者のありふれた末路であるともいえる。自分は今までの不遇の人生を清算するほどの自己確立の機会を求め野心を燃やしていたが、かといってそこまで社会に背を向けられず、真面目で迎合的である自分を捨てられなかった。その矛盾の綱渡りをうまくこなしていたが、精神の限界が訪れ、就活を機に総崩れしたというわけだ。そして今この停滞を語るなら次のように言える。すなわち自分は自身の不安を克服できるという神話を、挫折してなお捨てきれないでいる。すべてが克服できると未だに信じたいのだ。この理想はやはり自分を秩序づける想像上のフィクションだろう。だが現実はすべて崩れ、はやいうちに何か建て直しの策を打たなければそのまま淀み地に沈むという事実である。それを前に自分は妥協できない。克服の理想を捨てきれない弱さがある。だから現実的な手段を打つことに手をこまねいている。また自分は迎合を主として生きてきたのであり、もはや自分というものを持つことができないという事実がありながら、なお自己確立の神話を信じたがっているという点もある。そこに妥協ができない弱さというのもある。

何かを得たければ何かを捨てるしかないという言葉がある。前進を得たいなら高過ぎる理想を捨てなければならないし、夢と理想の世界にいたいなら前進を捨てなければならない。現状を見つめるならば、自分はすこし理想を捨てて現実を選んだと言える。妄想の霧を払い、自分の認識を立て直すことで状況が打開できると踏んでいる。失意はあるものの、一度すべてを清算できたというのは自分にとっては幸いだった。自分が救われることにもう執着しなくてよくなったからだ。それは曇っていた自分の目からは見えなかった、着実な努力、冷静な判断という方針を自分に与えた。

これは自分が社会の物語から解放され、自分の道を歩み始めたというようには捉えられないだろうか。自分が冷笑的で反逆的な姿勢であったのも、迎合を捨てられなかったのも、要するに他人の目に翻弄されてきたからだ。それに執着しなくなって今、ようやく自分の人生を歩み始めているのかもしれない。だが自分の人生に対する積極的な動機がもはや残っておらず、何も愛せず、何も求められず、ただゾンビのように生きる他ないと思ってしまう。そこは変わらない。目を逸らすことのできない事実だ。その中でいかに動機を回復するか、ということが課題になってくる。まったく展望が見えないが、制御不能な状況にただ願望を祈りに投影するだけだった頃よりは、ただ制御可能な領域を拡張すればいいと思える現在の方がよほど楽な課題のように思える。