人生

やっていきましょう

302日目

自分の不都合な事実を暴き出すというのは相当な苦痛を伴う。自分がそう思い込みたいと思っている何らかの価値観を崩すことになるからだ。こうした試みを続けていては自分にとって都合が良いものの見方ができなくなるだろう。つまりそれは自分自身の好みであったり、価値観の形成を阻害するものになる。

自分はその苦行を1年間継続し、もはや当たり前のこととなっているが、多くの人間が必ずしもその負担を背負っているわけではない。かつて自分がそうであったように、自分に有利なものの見方がすべてであると思い込んでいる人間は大勢いる。そういう人たちは、自らの価値観を形成するのは容易だと思う。自分に不都合な見方を極力排してきたからだ。だが自分はその道を自ら閉ざした。今ここで自分にとって都合が良い世界観に満足していては、自分はもう立ち直れないと知っているからだ。

もし自分が今自分に都合の良い見方をしたならば、自分は傷ついたという既成事実に基づいて、人と関わらない、働かない、口だけの人間になる、責任を逃れる、他人のせいにする、自己保身に走る、自殺を脅迫の材料にする、惰性のまま生きる、そして反社会的な考えに陥ることになるだろう。事実、自分はそうなりやすい傾向を持っている。そうなってしまえば、世に数多存在する同類たちのように、すべてを諦めて厭世的に生きる他なくなってしまう。

自分はまだそうなるつもりはない。自分の精神不安から必然に生まれた粗い認識と判断力ゆえに自分は1度失敗した。ただそれだけで、すべてを諦め、厭世的な生き方を選んで自ら機会をドブに捨てるのは惜しいと感じた。本当はほとんどすべてを諦めてしまっている。あらゆることに失望している。だが僅かに残る自分の生の意思を自分は売り渡さなかった。

だから自分は記録をつけてきた。自分はこの記録の中に、自分の弱さに関する言及を何度と行ってきた。自分が強い気でいたいという願望が見せる虚像を取り除き、自分が弱く脆い存在であるという事実を、誇張に依らず確かな目線でひたすら暴き出してきた。どれも自分を正しく見つめるためだ。はじめは苦痛だったが、1年もすれば慣れてしまった。自分は弱者である。認識には歪みがある。頭で分かっていても行動できないことがある。だがそれ以上の卑屈は無用だ。自虐的な虚像もまた排さなければならない。このようにして自分に対する確かな目線を取り戻そうとした。その試みは概ね成功しているといえる。

自分に対する批判的な目を常に持つことは容易ではない。だが自分はそれを記録をつけることによって継続してきた。そのことはほんの些細な進歩であるにしろ、自分の功績であると誇っていいと思う。そして自暴自棄の中でその目線を捨てなかったことは賞賛に値する。そのおかげで自分は今こうして批判的に自分と向き合えている。誰かが言ってくれる、催促してくれるのを待っていたら決してこの態度は身につかなかっただろう。自分の意思の産物である。