人生

やっていきましょう

313日目

1日中つまらないことだけを考えている。ゲームがどれだけうまくなったか、今日読んだ本はどういう内容だったか、Youtubeで聞いた音楽はどうだったか、クイズは順調か、運動で疲れた後の飲み物は美味しかったか。

自分にとって少しだけ楽しかったことを思いだして1日が終わる。否定に向かうことが少なくなった。危機感もあまり抱かなくなった。他人が自分よりも先に進んでいることにも、自分が劣っていることを理由に誰かに叱責されたくないということにも、今では何も感じていない。そんなものは努力しない言い訳だとかつては後ろめたく思っていたが、今では本当に何も感じなくなってしまった。自分は自分を否定し続けることに疲れてしまった。変化をあれほど望んでいたのに、今ではただ安定になびいている。

自分は人生についぞ意味があるようには思えなかった。不条理な痛みの無意味な繰り返しと、ちょっとした慰めだけがある。その僅かな希望をもってしても、その他の多大な苦痛と釣り合うのかといえば疑問である。だが自分は失意のどん底を経てある種楽観的になり、自殺をするという最適解を拒んだ。死の恐怖もあったが、自分を見直す良い機会ではないかと思ったからだ。

人生の意味とは何かと問われたら、自分は無意味な解釈だと答えるだろう。こうした解釈の正当性は客観的な事実の中にはなく、個々人の主観の中にある。同じ解釈をする者同士がそれが世界のすべてであるように錯覚して想像力を共有し、異なる解釈をする者同士が互いの解釈を否定し合い不和が生まれる。だがいかなる価値もそれが自分の救済を確約する究極の真理であると証明する手立てはない。ただ暗闇の中でそうらしいと信じる他にない。

自分はこの事態を本当に深刻な問題として捉えていた。だが一方であまり問題にも思わない人たちもいる。自分を受け入れてくれる周りの人になんとなく合わせていれば良いと思える日和見な人、自分の価値観が自分の(あるいは世界の)真理に通ずると確信している人、ある支配的な価値観が浸透しているフィールドで多大な恩恵を受けているためにそもそも懐疑を抱く必要のない人。彼らのような安定した世界観を自分は持つことができなかった。なぜなら自分には信仰心が欠けていた。すべては疑わしく、自分にとって恐怖の対象だった(今思えば「とりあえず信じる」「外れたときの対処法を予め想定する」という判断が賢明であると感じる)。

自分は脆い人間であり、精神的に弱く、しかし孤独を受け入れざるを得なかった。ゆえにそうした自分を救済する物語を自分の中に敷き、それを貫き、しかし粛々と行われ、ひっそりと崩壊した。それは夢といった明確な目標ではなく、元々価値のない自分という人間が生きていて良い理由がきっと見つかるだろうという漠然とした期待だった。だが事実は、人は誰しも生きていて(あるいは単にそこに居て)良い理由など与えられておらず、力任せに奪い取るか、信仰に目覚めるか、あるいは当然のごとく適応するか、とにかく自分は生きていて良いという価値観を見出した者のみが、その陶酔の利益に与れるということだけだった。そしてその価値観は、もし幸福になりたいのであれば、決して疑ってはならないものだった。

今思えば疑問が残る。自分はなぜ虚構を受け入れないのか。自分を救われた気分にさせてくれる諸価値を信じればよいではないか。なぜ事実は空虚などと自分に不利な認識に至ろうとするのか。例えば神がいると信じたところで、それが間違いであったとしても不都合があるだろうか。神でないにしろ、自分の好ましいものを好ましいと心の底から思うことに、それが空虚であるにしろ、何の不都合があるのか。このように自問すると次のような答えが出てくる。「自分はとにかく、すべてのことが疑わしいのだ」

この有無を言わせぬ自分の猜疑心を見れば、これもまた信仰心の亜種であるように思えてならない。疑わしさの虜になり、仮想敵に怯えたり、誰かの言葉に苦しんでパニックになる必然性などそもそも存在しない。例えば自分の対人恐怖を正当化する常套句として「相手が自分のことを悪く思っている」という信念が自分の中には根強く残っているが、事実は「相手が自分のことを悪く思っている」と想定した自分が必要以上に身構えて挙動不審になっている、まさにその態度を見て違和感を覚えているだけだろう。自分が「相手が自分のことを悪く思っている」と思わなくなれば、相手もその態度を見て通常通りに接するようになるだろう。

適切な懐疑というものがある。懐疑は誰でも抱くことができる。だが懐疑に対する懐疑を抱くことはあまりできない。その懐疑は適切か。その懐疑はそれほど深刻な問題か。懐疑を裏付ける根拠同様、その反証はあるか。懐疑の保留もひとつの選択肢ではないか。これは自分にとっては相当難しいことだと思う。何か緊急の状況になったとき、自分は暴走する懐疑を咄嗟に退けることはできないと思う。だがそうした自分の傾向を受け入れ、猜疑心を薄められることができれば、先に述べた通り、懐疑に振り回されずに問題を一旦保留にして「とりあえず信じる」ことができ、仮に懐疑の通りになったとしても予め想定しておいたプランBを実行すればいいだろうと冷静に対処することができるようになるだろう。

自分は今、自分の満足を確かめている。懐疑によって失われた平衡感覚を、自分の率直な好意的感情によって取り戻そうとしている。はたしてそれをいつまで続ければ良いか分からない。あまりに長く心の安定を求めすぎたことで、それが自分の「人生の目的」になってしまうかもしれない。だが自分はまだ安定に埋没したくないと思っている。所詮は敗者の強がりで空虚な価値観でしかなく、もはや期待すら残っていないが、しかしそれでも、いつかは立ち上がらなければならないと思っている。自分が何のために記録をつけ、何のために懐疑を捨てないかといえば、1年前の覚悟を忘れないためである。